コナミの組織改革とビートマニア
1997年に稼働したビートマニアでアーケードにおける音楽ゲームのパイオニアとなったコナミ。ビートマニアという斬新なタイトルを発案・開発したのは入社間もない若手社員たちであったことは過去の記事で触れた通りである。
プリクラブームによって、ゲームセンターに来店するようになったライトゲーマーや女性客をターゲットにした企画。だが、当時この客層を狙っていたのはもちろんコナミだけではない。
なぜ、コナミが音楽ゲームのパイオニアになることができたのか。それは、ビートマニアを生み出した水木潔氏や南雲玲生ら開発スタッフの功績であることは間違いないのだが、彼らのアイデアを魅力ある商品として具現化できるか否かは企業の経営層の手腕にかかっている。
今回はコナミという企業の歴史と、ビートマニアを生み出すことになった時代背景について調べていきたい。
コナミの成り立ち
現在、世間一般的に「コナミ」と言えば、スポーツクラブとしてのイメージを持つ方も多いが、コナミのスポーツクラブ事業は2001年にフィットネスジム「ピープル・エグザス」を買い取る形で発足したものであり、それまでは専らゲーム開発を行う企業であった。
だが、コナミの祖業はゲーム事業ではない。同社は1969年に上月景正氏が創業し(1973年に法人成り)、当初はジュークボックス機などのレンタル・修理業を営んでいた。
wikipediaより。ジュークボックスは歓楽街のバーなどに設置されていた。
その後、飲食店内の娯楽設備がピンボール等のゲーム機に置き換わっていく流れが起き、コナミはゲーム機制作に業態転換する。
ジュークボックスの取扱業者がゲーム機制作に転換したのは珍しいことではなく、ジュークボックス輸入業者大手の「太東貿易株式会社」や、初の国産ジュークボックス「セガ1000」を開発した「サービスゲームズジャパン」は、いずれもゲーム機制作に業態転換し、アーケードゲームの歴史にその名を刻むメーカーとなっている。
ジュークボックスは、自分の好きな音楽を聴いているときはいいけれど、他人が選んだ音楽は聴きたくないでしょう。そこでジュークボックスの順番を待っている間、他に遊ぶ機械はないかとなった。それがゲーム機になっていくのです。
(中略)何かあれば、他人の曲がかかっている時の暇つぶしになる。けれども、そのうちジュークボックスよりゲームの方がおカネの消費が早いから、儲かることがわかってくるわけです。
さらに飲食店の売り上げより、ゲームの売り上げが大きくなり、だったら、ゲーム機だけ置いた方がいいとなり、それがゲームセンターになっていくのです。店の経営者にとっては仕入れもいらないし、機械が勝手におカネを稼いでくれるから、こんないいものはないと。
企業家倶楽部2005年4月号「コナミ特集第5部 編集長インタビュー」/コナミ社長 上月景正
左はサービスゲームズジャパンの「セガ1000」で、現在の社名の由来になっている。右は太東貿易株式会社が株式会社タイトーに社名変更した後に発売、社会現象を巻き起こした「スペースインベーダー」の筐体。
その後、事業規模を拡大していったコナミは上場を検討し始める。当時、ゲーム産業の地位は低く、売上金として約束手形を受け取っても銀行が手形割引に応じてくれず、資金繰りに苦労していた。上場することで信用力を高めたかったのだろう。
手形をもらっても信用のない業界だから、銀行でなかなか手形割引がしてもらえない。不渡りになると信用がなくなるから、仕事ではなく資金で苦労をしました。
新卒が入る以前のことですが、月商五千万円ぐらいのときに一億円の不渡りに引っかかったことがあります。信用金庫とか自分の蓄えなどをかき集めて切り抜けましたが、資金繰りは綱渡りでしたね。
企業家倶楽部2005年4月号「コナミ特集第5部 編集長インタビュー」/コナミ社長 上月景正
ゲーム会社の株式上場は困難を極めたが、1984年に大阪証券取引所新二部への上場を果たした。
大阪証券取引所にベンチャービジネス振興を目的とした新二部ができたのを契機に昭和五十九(一九八四)年、上場しました。それによって手に入れたキャピタルゲインで借金をすべて返し、それからはおカネの苦労はしていない。やはり上場というのはベンチャー企業にとっては非常に助かりますよ。
企業家倶楽部2005年4月号「コナミ特集第5部 編集長インタビュー」/コナミ社長 上月景正
ゲームという分野では上場できなかったので、電子応用機器の会社として上場しました。電子応用機器がゲーム産業で使われているという位置づけですね。それで当社が上場すると、同業他社が「こんな産業でも上場できるのか」と驚いて、みんなが当社に勉強にきました。またうちの主幹事はN証券だったのですが、競合他社を聞かれてS社、N社、T社と答えると、N証券がみんなそこに「上場しませんか」と回り始めたんですね。それど、みんなが当社の後に続いて上場していったのです。
企業家倶楽部2005年4月号「コナミ特集第5部 編集長インタビュー」/コナミ社長 上月景正
そして、1987年には上月景正氏が会長に就任。経営の指揮は社長に任せて一線から退いたという。
創業者の上月社長は八十七年から九十四年まで会長に選任した。同社長は「会社の信用力を向上させるには外部から権威のある人材を招くべきだと判断した」と狙いを説明する。
日経産業新聞1999年6月16日「ゲーム業界の覇者狙うコナミの野望(3)」
倒産の危機からの復活
1988年には東証一部(現在の東証プライム)上場を果たしたコナミだが、その後、財務状態は悪化していく。1994年には倒産寸前の状況になり、会長の上月氏が社長に復帰して資金繰りに奔走する。ギリギリのところで資金調達に成功し、経営の立て直しを図ることとなった。
上月氏はこの時の様子を次のように語っている。
平成六年には気がつかない間に会社の経営が完全に行き詰っていました。ヒット作が出ないうえに、不良在庫が膨らみ、これを子会社に移して本体の決算だけは繕っていたんです。
(中略)どうすれば会社をつぶさずにすむか、考えに考え抜いた末に出した結論は、自分が社長に復帰して、陣頭指揮するしかない、ということでした。
(中略)当時のメーンバンク、大和銀行には追加融資を断られるどころか、資金を引き揚げられてしまいました。証券会社も社債の発行に応じてくれない。最後の手段として海外市場での資金調達に挑戦して、ロンドンで転換社債を発行できたのです。百五十億円調達して、これで助かりました。
産経新聞2000年1月10日東京朝刊 「コナミ会長兼社長上月景正氏 社長に復帰して経営立て直し」
失敗の原因を究明していくと、組織が高齢化・硬直化していることで現場の活力がなくなっていたことに気付く。規模を拡大し上場会社として体裁を整えるために、異業種から沢山の役員を招いており、若手社員の労働意欲が無くなっていたという。
社長もそうだったんですが、その下にも外部からたくさんの人をスカウトしていたんです。銀行、証券会社、官公庁…。上場企業らしく装うためにと考えていたんです。私の意向だったわけですが、大きな失敗でした。
生え抜き社員が皆若かったこともあって、役員は外部から迎えた五十代以上の人ばかり。年功序列に基づく弊害を招いていた。労働意欲がわかない、競争力もない。実態もわからなくなっていた。
産経新聞2000年1月10日東京朝刊 「コナミ会長兼社長上月景正氏 社長に復帰して経営立て直し」
この状況を打開するために行ったのが、組織のスリム化と若返りであった。専務職を空席として、社長直下に常務を配置。これまで会社を支えてきた若い生え抜きの社員達を登用した。上月社長自身は敢えてゲームの吟味はせず経営に専念し、現場は常務に任せる体制を採った。
1999年6月16日 日経産業新聞より。業界他社からはグリム童話になぞらえて「上月景正と九人の小人たち」と呼ばれていたとのこと。
能力主義を導入して、若いが生え抜きで会社を支えてきた三十代の社員六人を取締役に登用しました。一番若い人は三十六歳。年俸制、成果主義、お目付け役としての社外取締役、分社化、ストックオプションと次々と新しい制度を導入していきました。
産経新聞2000年1月10日東京朝刊 「コナミ会長兼社長上月景正氏 社長に復帰して経営立て直し」
若い感性が生み出したビートマニア
そして、この一番若い三十六歳の常務─田中富美明氏が現場で陣頭指揮を執り、生み出されたのがビートマニア・ダンスダンスレボリューション等のビーマニシリーズだったのである。
入社以来、半導体を使ったデジタル処理に興味を持つ技術者として工場勤務や業務用ゲーム機器の製作に携わってきた田中に、一大転機が訪れたのは九十六年のことだった。
同社では「トップは、可能性を持った人物に権限と責任を与えてやらせてみる勇気が必要」という上月景正氏の決断で、三〇代社員六人を取締役にする大抜擢人事が行われた。そのなかの一人に最年少で選ばれたのが田中である。
JAL機内誌 Agora 2000年6月号
以前の記事でも扱ったが、田中常務はビートマニアの制作にあたって、深夜十二時~四時にかけてクラブ回りを毎週行っていたというエピソードがある。
常務は"現場監督"
「最近はやりのクラブというやつを毎週ハシゴしましたわ」。コナミの田中富美明常務は大阪弁で屈託なく笑う。"クラブ"通いは、累計六千台を販売した同社のヒット作「ビートマニア」の市場調査のためだ。
最新の若者の流行を肌身で知り、ゲームに反映させたのが同社の音楽ゲームシリーズだ。コナミの主力商品の音楽ゲームは開発現場がアイデアを思い付き、田中常務が具現化した。
日経産業新聞1999年6月16日「ゲーム業界の覇者狙うコナミの野望(3)」
実はビートマニアが稼働した1997年前後は若者の間でDJという職業が人気になっていた時期でもあった。
バブル景気末期の1991年に芝浦でオープンした「ジュリアナ東京」に代表されるように、かつて若者が音楽を楽しむ場はディスコであったが、豪華さを競い合うような出店競争や、女性客の下着同然の露出合戦等が過熱していく中で、純粋にダンスや音楽を楽しんでいた若者たちの足が遠のき、1994年頃から彼らが向かい始めたのが「クラブ」であった。
巨大なディスコと比較して小規模で、音楽ジャンルごとに棲み分けされたコアな客が集まる「クラブ」では、イベントを企画するオーガナイザーや楽曲を流すDJが注目されるようになっていた。
日本経済新聞1998年11月28日朝刊。ビートマニアが稼働した時期は、若者にとってDJがあこがれの存在になっていたタイミングだった。
DJ 仕事にしたい体験したい
将来なりたい職業はDJ!男子中高生を対象にした調査で第一位になるほど、DJの人気が高まっている。五、六年前からクラブに通う高校生の間で評判になり、あっという間にあこがれの存在になった。
産経新聞1998年10月25日東京朝刊 【SUNDAYスクランブル】
南雲氏らビートマニア制作スタッフがクラブ音楽好きだったのは、このような時代背景があったのかも知れない。「自分たちが好きなテーマが、同じ世代の若者たちにもウケるのではないか」という若者の発想を具現化できたのも、最年少の常務取締役である田中氏の感性があってのことだろう。
子会社化と独立採算制
上月氏が社長に復帰した直後、1996年頃からコナミは開発拠点を分散・子会社化し、互いに競わせるようになっていった。これは1995年に起きた阪神・淡路大震災の影響でもある。災害に対するリスク分散と、クリエイターに採算性を意識させるという2つの狙いで行われた施策であろう。
コナミマガジンvol.11目次より。子会社は日本各地に設立されては消えていった。
子会社を相次ぎ設立し、実績が上がらないと見るやすぐさま清算・統合に踏み切る。場当たり的とも見えるが、吸収統合した会社がヒット作を連発するなど効果は上がっている。
(中略)この"擬似"ストックオプション(自社株購入権)を仕掛けたのは館野登志郎常務(41)。同常務は「ゲームを作っていれば良いという意識だった開発者たちが自社の株価に興味を持ち、会社の業績を考えるようになった」と話す。
日経産業新聞1999年6月16日「ゲーム業界の覇者狙うコナミの野望(3)」
この子会社化と独立採算制の影響を受けたのが家庭用ビートマニアである。
詳しくは以前の記事を参照していただきたいが、家庭用ビートマニア及び家庭用IIDX(6th styleまで)を制作していたのは小島秀夫が所属する「KCEジャパン」であった。
KCEジャパンはPS1用ソフト「メタルギア ソリッド」を開発していたが、制作には時間と費用がかかるため、別のタイトルをリリースして開発資金を調達する必要があった。そこで、目を付けたのがビートマニアの家庭用移植である。
子会社の独自採算制が導入されなければ、家庭用ビートマニアがKCEジャパンで作られることは無かったかもしれない。家庭用ビートマニアが同社所属の藤後浩之氏中心に制作され、藤後氏にスカウトされて入社したのがL.E.D.氏であることを考えると、制作部門の子会社化という戦略は、現在のビーマニシリーズに少なくない影響を与えているといえる。
ビーマニブランドの誕生
1998年9月、コナミはブランドイメージをまとめるため、一連の音楽ゲームタイトルを「ビーマニシリーズ」と名付ける。この経緯を田中常務は次のように語っている。
シリーズとして立てようとしたのは去年の9月です。ビートマニアの流れから当社は二つの流れが存在していました。ひとつはポップンミュージックのようなライトユーザー向けのもの、もうひとつは「魅せる」という部分を考えて仕上げたダンスダンスレボリューション。
このふたつを9月のAMショーに出して反応を見たわけです。その際の反応がとても良いものでしたので、音楽ゲームはジャンルとしていける。当社のアミューズメント商品の次のメインジャンルだと確信しました。
そこから、ビーマニシリーズというブランドイメージでまとめた商品展開をしていこうと決めました。
コインジャーナル1999年5月号 スペシャルインタビュー「広がるビーマニシリーズ」
業界誌ゲームマシン1999年2月15号11頁より。ビーマニシリーズというブランドが誕生した直後の広告。
翌1999年3月30日、コナミの株式時価評価額がセガを抜き、任天堂に次ぐ業界二位となった。日経産業新聞ではこの快挙について、これまでの業務改革の結果が実ったことを評価しつつ、音楽ゲームが一過性のブームで終わる前に次の一手を見定める時期が来ているとしている。
日経産業新聞1999年4月1日より。屋内で画面に向かって黙々と遊ぶというゲームの常識を覆し、暗いイメージだったゲームセンターにクラブやライブハウスに似た雰囲気を作り出したと評価している。
ゲーム産業に詳しい日興ソロモンスミスバーニーの藤根靖晃アナリストは「奇抜な音楽ゲームが当たっただけでなく、それを企画し、販売するまでの経営の意思決定のスピードが早い。開発部門を分社化し権限委譲したことが功を奏している」と分析する。
日経産業新聞1999年4月1日 「コナミ、売上高1,000億円突破へ」
そして、2001年1月にはフィットネスジム「ピープル・エグザス」を友好的TOBにより取得、スポーツクラブ経営に乗り出すことになるが、このTOBのきっかけになったのは家庭用DDR 3rdMIXだったと上月社長は語っている。
当社はダイエットができるゲームをつくっていた。音楽を聴きながら体を動かすだけでダイエットできるというものです。その時に、ピープルからカロリー計算などのノウハウをもらって、共同開発したのです。
(中略)そうした中で、たまたまマイカルが業績不振でピープルを売るという話が出てきた。
企業家倶楽部2005年4月号「コナミ特集第5部 編集長インタビュー」/コナミ社長 上月景正
コナミマガジンvol.16より。家庭用DDR 3rdMIXには、リザルト画面に消費カロリーを表示するダイエットモードが搭載されており、その際に「ピープル・エグザス」との共同開発を行った縁からTOBにつながったのである。
このように、1990年代から2000年代にかけてのコナミは、倒産の危機を乗り越えて経営を建て直す中でビーマニシリーズを生み出し、DDRブームからスポーツジム経営に着手している。
現場で活躍する若手への権限委譲、スピード感のある意思決定で難局を乗り越えてきたコナミ。経営層と開発現場が強固につながっている企業風土を強みとして、これからのビーマニシリーズをどのように進化させていくのだろうか。
ばっかお前…2022年7月1日付でコナミアミューズメント常務執行役員に就任したDJ YOSHITAKAがついてるだろ
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- 初代五鍵や初代IIDXのロケテ版を目撃orプレイした方
- ビーマニ関連を扱った一般雑誌・テレビ番組等をご存知の方