ビートマニア誕生秘話!
3ボタンのエレメカから五鍵DJシミュレーションへ
「ビートマニア」。1997年12月、ゲームセンターに出現したこのDJシミュレーションゲームは、ゲーム業界にとどまらない社会現象を巻き起こし、「音ゲー」というジャンルを生み出した歴史に残る作品である。
「五つの鍵盤とターンテーブルを駆使してクラブサウンドを模した楽曲を演奏しギャラリーにアピールする」というこれまでにない斬新なゲーム。製作期間はわずか8か月だったという。
ビートマニアというゲームはどのような背景で発案され、どのような過程を経て完成したのだろうか。調査を進めていくと、当時のコナミの経営事情やプロトタイプ版ビートマニアに関する文献が見つかった。これらの貴重な史料を見ながら、ビートマニアの開発現場の真相に迫っていこう。
コナミの経営危機!アーケードを強化せよ
ビートマニア誕生の背景を語るには、当時のコナミの経営危機と組織改革について理解しておかなければならない。
話はビートマニアが生まれる3年前、1994年にさかのぼる。当時、コナミはヒット作に恵まれず、過去に海外展開した際に生じた大量の不良在庫を抱えていた。
コナミの創業者でありながら、若くして経営の一線から退いていた上月景正氏は、この状況を見かねて自ら社長に復帰する。上月氏は赤字覚悟で不良在庫を整理し、組織改革を行った。(組織改革の詳細はこちらのコラムを参照)。
不良在庫という膿を出し切った代償として、1995年3月期決算は上場以来初の大赤字に転落。起爆剤となり得るヒット作を生み出すことが急務となっていた。
実業界 1996年4月号。上月氏社長就任1年後の1996年3月期は早くも黒字転換したが、これは1994年に発売された「ときめきメモリアル」のヒットによるところが大きかった。
上月氏が社長に復帰して最初に打ち出したのが「アーケードゲームの強化」だった。創業当初から経営に携わっていた上月氏は、コナミの開発現場には優秀な人材が揃っていることを知っていたのである。
アーケードゲーム強化のために打ちだした施策は2つ。1994年に完成したばかりの「東京テクニカルセンター」(神奈川県座間市)で、三次元CGを使ったゲームや大型ゲーム機を開発すること。そして、自社運営のアミューズメント施設「チルコポルト」を開業することである。
九四年の就任後まず手がけたのがゲームセンター事業を強化するために、神奈川県座間市に「東京テクニカルセンター」を設置し、三次元コンピューターグラフィックスを使った新型ゲームやコックピットを使った大型ゲーム機などの開発に着手した。
そして、このセンターを核としてアミューズメント施設を独自に運営していくことを本格的に始めた。
実業界 1996年4月号
そして、この東京テクニカルセンターでビートマニアが開発されることになる。所在地は神奈川県座間市東原5-1-1。後にIIDXやビートマニアIIIもこの地で誕生するまさに「始まりの地」である。
東京テクニカルセンターは現在もコナミの商品開発・製造・物流を担う拠点となっている。
狙いはプリクラ層!若手スタッフが集結
この時代のアーケードゲーム業界は、格ゲーブームが終わりビデオゲームが低迷する中で、1995年に登場したシール自販機「プリント倶楽部」(プリクラ)が大ヒット。ゲームセンターは従来の「暗い・汚い・怖い」というイメージから一変し、プリクラ目当ての女子高生やカップルがゲームセンターに来店することが珍しい光景ではなくなっていた。
ゲームメーカー各社は、プリクラブームでやって来た新しい客層を取り込めるようなゲームを模索していくことになる。
コナミの起死回生の一手として設立された東京テクニカルセンターはその後「GM機器事業本部」に名称変更され、様々な企画が練られていた。
当時コナミのアーケード事業を担っていたのは、兵庫県神戸市のAM機器事業本部と、神奈川県座間市のGM事業部であり、ビートマニアはGM事業部で生まれることとなる。
メダルゲームやプライズゲームを中心に開発していたGM事業部からビートマニアが生まれたのはなぜなのか。それは、ビートマニアの元となるアイデアがプライズゲームだったからである。
ビートマニアが完成するまでの経緯については、電撃王1999年1月号に詳しく書かれている。
ビートマニアの企画書を作ったのは入社2年目のMiZKiNGこと水木潔氏。1997年春頃、水木氏は、プライズ機「みらくるすぴん」(南雲氏が開発)とヤマハが販売していた「ジャミネーター」をヒントに「音を鳴らすゲーム要素のあるプライズ機」を考案する。
1997年2月末に発売されたプライズ機「みらくるすぴん」。景品を補充する際に扉を開けた状態で操作用のボタンを押すと、ドラムやスネアの音が鳴るというお遊び要素が付いていた。
水木氏:『BM』を創る上でイメージしたのが「ジャミネーター」ですね。これは適当にボタンを押すだけで曲になるという一種のおもちゃなんですが、そういった「おもちゃ感覚」を出せればいいかなと思ったんです。
ゲーム批評 1999年1月号
このような企画が生まれた背景には意外なゲームが関係していた。1995年に稼働したイントロ当てクイズゲーム「ドレミファグランプリ」である。サウンドクリエイターの中では「自らの手がける音楽が主役になるゲームを作りたい」という機運が高まっていたようだ。
ゲームにBGMは付きものだ。だが裏方だった音楽も、最近ではサウンドトラックとしてCD発売されることも稀ではない。音楽制作技術が向上している証拠と言ってもいい。
そこでクリエイターたちの中にも「自らの技術が前面に出る、音楽そのものを扱ったゲームを作りたい」という要望が高まっていた。
経済界 1999新春特大号
その後、様々なアドバイスを受け、プライズを入れずにモニターを付けるという案に変更することとなった。ところが、傍から見ていた南雲氏はこの企画について懐疑的だったという。
水木氏:「UFOキャッチャー」のようなものですね。ああいったものに、よりゲーム性を持たせた作品を考えていたんです。ところが、その企画を出したときにほかの人から"それだけゲーム性があるなら、景品はなくても大丈夫なんじゃない?"と言われて。
水木氏:そうしたら今度は"画面があっても良いんじゃないか"と言われたんです。
電撃王 1999年1月号
南雲氏:「beatmania」については、正直に言ってしまうと、最初、ミーティングに参加する前は"どうなるかわからないし、ちょっと……"という感じでした。やや否定的だったんですよ。
電撃王 1999年1月号
音楽をテーマにしたゲームの企画ということで、水木氏はサウンド開発室に相談を持ち掛ける。流行りの音楽を題材にしたいという水木氏に対してクラブミュージックという案を出したのがHIRO総長こと竹安弘氏だった。当時は若者が音楽を体験する場がディスコからクラブへと移り変わっていった時期であり、クラブDJという職業が人気になっていたのである。
南雲氏:「クラブ系な方向に持っていこう」と言われたのはHIROさんです。
HIRO氏:MiZKiNGの方から「何か流行りの音楽を題材にしたゲームを」という提案がありまして、インターフェイスをDJにしたらどうか?とアイデアを出しました。
ビートマニア プレスミックス
水木氏:"筐体にターンテーブルがあったりしたら面白いんじゃないか、DJ風にしたら良いんじゃないか"ってことになりました。そこで、そのアイデアを組み込んで出した企画書が、最終的に今の「beatmania」の原型になりました。
電撃王 1999年1月号
水木氏の企画に対して、サウンド開発室からは「曲を繋ぐリアルなDJプレイをシミュレートする」という案が出される。これに対して水木氏は「エレメカのような感じで手軽に楽しめればいい」という考えがあり、両者の折衷案としてビートマニアの原案が生まれたのである。
水木氏:サウンド側は曲と曲をつなげるような本物のDJプレイをシミュレートしたゲームにしようという考えがあって、僕はエレメカ的に誰でも手軽に楽しめるようなゲームにしたい考えがあって、そのちょうど中間に位置したのが『BM』のあの形なんです。
ゲーム批評 1999年1月号
水木氏:SD室から「DJ的に」ということで、完璧に再現することは無理だとしてもいろいろ織り込みたいという意見はありました。僕の方はそんなにこだわりはないというか、ゲームとしておもしろければいい、という感覚があったのでその折衷案です。
ビートマニア プレスミックス
こうしてミーティングを重ねていくうちに、当初否定的だった南雲氏は乗り気になっていく。ヒットするかどうかは分からないものの、音楽に詳しい開発スタッフらと共に仕事をしていきたいという思いが強くなったという。
南雲氏:"成功するか失敗するかはわからないけれど、自分で作っていきたい、これなら自分は打ちこんでいける"っていう感じですね。
南雲氏:チームのみんなが音楽好きだったことはもちろんですが、実際に楽器を弾けるとか譜面を読めるなど、音楽のことが分かる人が偶然多かったということも良かったんでしょうね。ゲームを作る時でも"3拍目の裏拍が……"といった話をしてもわかってもらえましたから
電撃王 1999年1月号
こうして提出された企画書は1997年4月に承認され、正式に開発チームが結成された。この企画書を承認したGM機器事業本部長の岡本浩司氏は次のように語っている。
最初『beatmania』の企画書を見たときは、正直、面白いのかどうかまったくわかりませんでした。それで、みんなに聞いてみると"いいんじゃないの"とか普通に言われて。"GO"の指示を出そうか出すまいか悩みましたよ。
でも、とりあえず人材はそろっていてチームもほぼ固まっていましたし、寒川くんも"何か新しいことをやりたい"と言っていたので、"じゃあ、やってみようか"ということになりました。
電撃王 1999年1月号
水木氏の企画は「新しいジャンル」かつ「女子高生やカップルに訴求できるゲーム」という当時求められていた要素を兼ね備えていた。アーケードゲームで苦戦していたコナミだったが、若手開発チームで巻き返しを狙うことになったのだ。
プリント機や景品機などにも言えることなのですが、今までゲームセンターに来たことのない人や、女性の方などのライトユーザーを取り入れて、ユーザー層を広めていこうというコンセプトがありました。
渋谷に置いても遊んでくれる、ついてきてくれるものを目指そうという気持ちが、このビートマニアの構想でもありますね。
ゲーメスト1998年7月30日号
水木氏のこれまでにない発想の企画が実現した理由の1つとして、コナミはここ数年、業務用ゲームではこれといったヒット商品がなかったという事情もあっただろう。
業務用ゲームでこれまでにない斬新な新製品が求められていたのだ。
日経ビジネス 1999年2月15日号
試行錯誤の連続!三鍵から五鍵へ
最初は3つの丸ボタン&中央皿(激重)だった
こうして正式に開発がスタートしたビートマニアだが、この段階では完成形からは程遠く、製品版の鍵盤にあたる部分は3個の丸型ボタンで、ターンテーブルは1Pサイド・2Pサイドの間に1個という配置だった。
水木氏:一番最初は、ボタン3つにターンテーブルでした。しかもターンテーブルが真ん中にひとつで、2Pで取り合うような形で「これはやりづらそうだ」と
水木氏:ボタンの方は、「ポップンミュージック」のような、大きい丸ボタンを考えていたんです。
南雲氏:3つだったらちょっとねぇ。やばかっただろうね(笑)。
ビートマニア プレスミックス
開発初期のボタンとターンテーブルの配置でプレイしている人達のイメージ。二人で中央のターンテーブルを取り合うと色々支障が出そうだ。
しかもこのターンテーブルは土台の部分ごと回転するようになっていたという。DJが使う本物のターンテーブルは土台の部分も回転するので本物に近い仕様なのだが、重くなってしまい回しにくく、一度回り始めるとなかなか止まらないということで、表面だけ回る仕様に変更されたのである。
あご戦士氏:製品はアルミの削り物でできていますが、最初、実際のターンテーブルを真似して全部手で動かせるようにしたら、もう重くなっちゃって。慣性がすごくて、グルグルいつまでも回っちゃったりとか(笑)。そういう失敗を繰り返しながら現在の形になったんですよ。
電撃王 1999年1月号
このような試行錯誤を経て、1P・2Pそれぞれに3つの丸型ボタンとターンテーブルが配置された。その後、丸型ボタンを五鍵盤に変更することになった経緯については、水木氏や南雲氏らが「ビートマニアプレスミックス」にて次のように語っている。
水木氏:世界観を作った段階で、もっとPA機のような、機材っぽいイメージにしようと考えて。「鍵盤しかないな」ってことで四角いボタンなんです。5つになったのは、鍵盤に見える最低限の形という理由なんですよ(笑)。
ビートマニア プレスミックス
仮タイトルはDJ BEATS、幻のロゴマーク
この時点ではまだビートマニアという名称ではなく、「DJ BEATS」や「GR753」と呼ばれていた。2ndMIXのサントラブックレットに開発途中の筐体デザイン案が掲載されている。
2ndMIXサントラブックレットより。タイトルは「DJ BEATS」→「GR753」→「beatmania」と変遷していったものと思われる。
ビートマニアに使用されているシステム基板GQ753(DJMAIN)。「GR753」の由来はこれだろうか。
BEDLAM MORI氏:実はこのゲームは最初『DJ beats』というタイトルだったんです。『beatmania』に決定したのが、'97年9月のAMショウの2週間前でした。ですからそれまで、正式タイトルとは全然違うデザインを考えていたわけです(笑)。
電撃王 1999年1月号
電撃王 1999年1月号によると、DJ BEATS時代のロゴマークはこのようなものだったらしい。
AMショー'97で出展されたビートマニアのロゴがこちら。BEDLAM氏曰く、名称がビートマニアに変更されてからAMショー97での発表までの二週間で作り上げたとのこと。
これはヤバイ!驚愕のBGアニメ
画面中央のBGアニメは水木氏が一人で制作している。ビートマニアは低スペックの基板で制作されていたことから、高画質なグラフィックを表示することは諦め、見た人の印象に残るような「ヘタウマ」を狙ったBGアニメにするように心がけていたという。
しかし、1997年はPlayStationでFF7が発売されるなど、ゲームのグラフィックに求められるレベルが一段と高くなったタイミングである。水木氏の描いたBGアニメを見た製作スタッフからは「これはヤバイ」との声が上がったという。
水木氏:ヘタウマっぽい、みんなが"こんな絵でいいの?"と思うようなものを狙ってみたんです。実際"これはヤバイだろう"と言うスタッフもいましたが、無視して使ってしまいました(笑)。
電撃王 1999年1月号
他のスタッフから「動きがヤバイ」と言われた、Jamおじさんとハートを捨てる女の子のBGアニメ。
これが開発中のビートマニアだ!
5つの鍵盤とターンテーブルという操作形態が固まったビートマニア。この時期の画面写真と思われる貴重な画像が残っている。コナミ直営ゲーセン「チルコポルト」を中心に配布されていたフリーペーパー「KONAMI magazine Vol.5」に掲載されていたものだ。
KONAMI magazine Vol.5より。恐らく我々が見ることのできる最も初期のプロトタイプの姿だ。スコア脇のタイトルが「DJ BEaTS」となっており、中央下部にオーディオビジュアライザーが存在するなど製品版とは異なる部分が多い。
この画像ではレーン下部の形状は鍵盤になっているが、ノーツが丸型で、黒鍵ノーツは青ではなく濃いグレーになっている。ノーツが丸いのはボタンが丸かった頃の名残だろう。ボタンの形状が五鍵盤になった後も、しばらくは丸型ノーツで開発が進んでいたようだ。
この開発中の画像はRyu☆氏も見たことがあるそうで、ビートマニア20周年を記念して発刊された「BEMANIぴあ」の「kors k×Ryu☆対談」で次のように語っている。
Ryu☆:1997年ごろ、KONAMIが当時運営していた「チルコポルト」というゲームセンターに新作ゲームが載っている広報誌があって、そこに「beatmania」のことが書いてあったんです。
Ryu☆:広報誌では上から降ってくるオブジェが玉型で、今の「pop'n music」みたいだったんですが、最終的にリリースされたものは平たいオブジェで、「こっちのほうがタイミングが合わせやすいんだ」と思った記憶があります。
ビーマニぴあ kors k×Ryu☆対談
製品版のノーツも実際はフリスビー状になっているようなので、上から見れば丸いのかもしれない。
鍵盤を模したボタンとターンテーブル、画面上部から落ちてくる長方形のノーツ。現行のIIDXに至るまで20年以上大きく変わることなく受け継がれている画面構成は、当時の開発チームの試行錯誤による賜物であった。
GM機器事業部とAM機器事業部
着々と開発が進むビートマニアだが、その存在はまだ公にされていなかった。ビートマニアが初お披露目されるのは1997年9月のAMショー'97なのだが、AMショー直前のインタビューで、AM機器事業本部の田中富美明常務はビートマニアの存在をほのめかしている。
PSの「パラッパラッパー」、育成ゲームの「たまごっち」などは新ジャンルといえ、業務用に活かす方向も考えられます。しかもこの2つのゲームは、「プリクラ」利用層とも重なっている。いくつか企画がありまして、これらに関しては具体的に動いています。
ビデオゲーム市場の裾野を広げるために、低価格な基盤物で同様に新ジャンルを確立したいと思っています。家庭に引っ込んだゲームファン層をロケーションに引っ張り出したいですね。
アミューズメント産業1997年9月号
先に述べたように、ビートマニアを制作したGM機器事業本部は元々エレメカやプライズ機などを制作していた部署だ。ところが、企画を練る中でビートマニアにはモニターが実装され、ボタンで画面を操作するというビデオゲームに近い筐体になっていった。
恐らく、業務用ビデオゲームを扱う兵庫県神戸市のAM機器事業部がビートマニアの開発に協力していたものと思われる。
寒川氏:もともとGM機器事業部は、ビデオゲーム制作は苦手なジャンルでしたので、企画の意図する演出方法や操作感など、ソフトに大きく依存する部分のニュアンスをプログラマーに伝えるのも、非常に難しかった記憶があります。
コナミ年鑑'98
AM機器事業部はのちにDDRを開発するが、GM機器事業部が開発したビートマニアやIIDXとの楽曲共有や機種間連動などで深い関わりを持つことになる。
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