FURIMUKI style
1997-1998

脱オタク化とDJブーム!ビートマニア黎明期の舞台裏
(音ゲーブーム研究 part.1)

2026年3月1日

 1997年12月に登場したビートマニア(五鍵1stMIX)は、アーケードゲームにおける音楽ゲームのパイオニアである。

 当初、この奇抜なゲーム機を設置した店舗は少なかったが、導入した店舗ではギャラリーが群がるほどの爆発的な人気を博した。その評判は瞬く間に広がり、1998年2月頃には全国のゲームセンターへと普及していくことになる

不況の影響が当業界にも長く影をおとし、メーカー、オペレーター共に安定した売上げを得ることに必死だった。

AM自販機(※注:プリクラ等のこと)やキャラクタープライズなど、とにかく実績があって売り上げが見込めるもの、それだけに躍起になっていた時代。そんなところへまったく新しいコンセプトのゲーム機が現れたのだ、素直にその可能性を見いだせた人は限りなく少ないであろう

だが、そんな状況下でもコナミは年末に「ビートマニア」を発売した。そして、大半のオペレーターが様子を見ようと静観する中、一部オペレーターでは早々に導入して運用をはじめた

先見性があったのか、それとも単に入れてみたかっただけなのか、人それぞれではあるが、その行動の正否はすぐに明らかとなった

コインジャーナル 1999年4月号

 大音量でクラブミュージックを演奏するDJゲーム。従来のゲームセンターで見かけなかったような客層の人々が集まり、筐体の周囲には常に順番待ちの列とギャラリーが絶えなかった。この現象を各メディアはこぞって取り上げている

同ゲームのあるロケーションでは開店から閉店まで音楽が鳴りっぱなしのフル稼働。誰かがプレイしていても常にプレイ待ちのお客が筐体付近におり、行列ができる店舗もしばしば見受けられた

AM自販機ブーム以来、久々の行列である。しかも、AM自販機の行列はそれのみが目当てだった女子高生が主だったのに対し、こちらの客層はゲーマーを核に一般層まで及んでおり、ロケーションへ様々な人の足を向けさせた

コインジャーナル 1999年4月号

 「1998年頃から音楽ゲームがヒットし社会現象になった」という事実は、アーケードゲームの歴史に深く刻まれた出来事であり、当サイトの読者にはもはや説明不要だろう。

 「社会現象」という一言で総括されがちな音ゲーブームだが、当時の「社会」において、音楽ゲームは具体的にどのように扱われていたのだろうか。

 そこで本記事では、「メディアが音ゲーブームをどのように報じていたか」という視点から、当時の状況を振り返ってみたい。

当時のできごと・時代背景

 まずは、ビートマニアが一大ムーブメントを巻き起こした1997年から1998年にかけてのできごとについて、ゲーム業界と関連の深いものを中心に振り返っていきたい。

「次世代ゲーム機戦争」を制したプレイステーション

 当時の家庭用ゲーム機は、プレイステーション(PS1)・セガサターン・NINTENDO64などのいわゆる「第五世代ハード」だった。

 それまでの国内市場では任天堂ハードが圧倒的なシェアを占めていたが、NINTENDO64のシェアが低迷したことから、各社のハードが覇権を争う熾烈な「次世代ゲーム機戦争」が勃発していたのである。

 1997年1月、人気RPGシリーズの最新作『ファイナルファンタジーVII』がプレイステーションで発売され、同月にはエニックスが『ドラゴンクエストVII(副題未定)』のプレイステーションへの参入を発表。家庭用ゲーム業界は、新興勢力であったプレイステーションが完全に覇権を握ろうとしていた時代だった。

あっ、リメイクされてバリバリ現役タイトルのFF7とドラクエ7だ!

音楽雑誌 GROOVE 1998年2月号では1997年のゲーム業界の動向をまとめている。プレイステーションで覇権を握ったソニーコンピュータエンタテインメント(SCE)は、旧来のゲームメーカーと一線を画す販売手法を採っていく。

FF7が話題だった1997年だけど、実はこの年の年間売上トップは、1996年発売の初代ポケットモンスターだったというね…
発売から1年以上経つ旧世代機のソフトが、話題のFF7を抑えて売上トップ…まさに「怪物(モンスター)」か!

 プレイステーションは、大作RPGからパズルゲームまで多種多様なソフトを揃えることで、コアゲーマーからライト層まで幅広いユーザーの獲得に成功した

 また、SCEの母体であるソニーグループは音楽業界とも深いつながりを持っており、著名なアーティストを前面に押し出した音楽系ゲームを多数リリースしていたのもこの時期の特徴である。

 こうした「ゲームと音楽の融合」が試みられていた土壌は、のちの音ゲーブームを受け入れる下地となっていたとも言えるだろう。

「デプス」や「パラッパ」のリリースで、プレステが開拓した音楽系ソフトでも、電気グルーヴの「グルーヴ地獄V」が98年早々に発売。もちろん「デプス2」や「パラッパ2」の登場にも期待が集まっている。

また「電車でGO!」、「MOON」といった異色ソフトもプレステで発売。多種多様、初心者から玄人ゲーマーまでを押さえ、ソフト面でもまさに安定期といえるラインナップがそろっている

GROOVE 1998年2月号
グルーヴ地獄ファ~イヴ~♪…グ…グッ…グルッ…

平成不況と消費増税!値上げできないゲーセン苦難の時代

 1997年4月、消費税率が3%から5%へと引き上げられた。1991年から続く平成不況はいまだ出口が見えず、景気の低迷とともに人々の消費マインドは冷え込んでいた

朝日新聞1997年4月1日夕刊。当時は電子マネーが存在しないため、アーケードゲームは50円、100円、200円という刻み方でしか価格設定ができず、苦しむことになる。

 当時のアーケードゲーム業界では、1991年頃からの対戦格闘ゲームブームがひと段落した時期にあたる。代わって台頭したのが「プリント倶楽部(プリクラ)」をはじめとするシール自販機であった。これが女子高生を中心に爆発的なヒットを記録したことで、ゲームセンターの客層はかつてないほど大きく変化していた

コインジャーナル1998年4月号別冊より。写真左はアトラスのスーパープリクラ21。ナビゲーターキャラは女神転生シリーズのジャックフロストだが、女子高生の間では「プリクラ太郎」などと呼ばれていた。あまりゲームに触れていない客層を集客できていた証左だろう。写真右は当時コナミが開発していたプリプリtelシール。

あっ、横にプリティー(2Pカラー)がいる!

 一方で、ゲームセンターの経営は過酷さを増していた。アーケードゲーム機は100円玉や50円玉を投入して遊ぶという性質上、消費税分を細かく価格転嫁することができない。結果として、増税分を店舗側が負担せざるを得ない「身を削る経営」を強いられていたのである。

 こうした苦境の中、一部の大型筐体は、特別なゲーム体験を提供する「体感ゲーム」として、1プレイ200円以上という価格設定で運営されるようになっていた。

ビートマニアも1プレイ200円が標準設定だったね
200円のゲームに客が殺到。まさにゲーセンの救世主か

ポケモンショック!モンスターの電光が子供たちを襲う

 ビートマニアが稼働した1997年12月には、テレビアニメ界を揺るがす大きな出来事が起きた。画面の激しい点滅によって多くの視聴者が体調を崩した、いわゆる「ポケモンショック」である。

 一時は番組存続すら危ぶまれる事態となったが、この騒動をきっかけに映像表現に関するガイドラインが厳格化されることとなった。困難を乗り越え放送が再開されたことで、現在まで続く国民的アニメとしての地位を守り抜いたのは周知の通りである。

ポリゴンの回かー
光を放ったのはピカチュウなのに…

朝日新聞1997年12月17日朝刊。「テレビアニメを見るときは部屋を明るくして近づきすぎないようにしてくださいね。」のテロップが出るきっかけになった事件である。

ビートマニア稼働直後の大事件!ビートマニアも割とピカピカしてるけど大丈夫なんだろうか…
IIDXだと、点滅が激しいGHOST REVIVALとかの4th汎用ムービーは家庭用で差し替えられてるよ

ビートマニア、一般誌で話題になる

ゲーム専門誌を避けたコナミの広報戦略

 こうした時代の中で、ビートマニアが初めてメディアに姿を現したのは1997年10月頃のことである。同年9月に開催された「AMショー'97」での出展の様子が、写真週刊誌「FLASH」「週刊宝石」などで紹介されている。

 また、稼働直前の11月には情報誌「東京ウォーカー」でも取り上げられた。興味深いのは、専門のゲーム雑誌よりも、一般的な週刊誌やタウン情報誌で紹介されていたという点である。

 当サイトでは当初、この現象を「ビートマニアが既存のゲームの枠を超えたトレンドとして注目された結果」と分析していたが、後の調査で実態は少々異なっていたことが判明している。

 実際には、コナミ側がビートマニアを「普段ゲームをしないプリクラ利用客を狙ったタイトル」と明確に位置づけていたことから、当初はゲーム専門誌への露出を控え、あえて一般誌を中心に広報活動を展開していたのである。

FLASH 1997年10月14日号。AMショー'97で出展されていたビートマニアを「人気体感ゲームマシンおきらく『虎の巻』」という特集で「これから登場するNEWマシン」「目玉はコレだ」と紹介している。

東京Walker 1997年11月25日号では体感ゲーム特集として稼働直前のビートマニアが紹介されている。背景の様子からAMショー'97会場ではないことが分かる。稼働前に掲載された記事であるため、コナミの広報活動により掲載されたものだと考えられる。

プレイ中に横から覗かないで!気が散ります
まずレゲエで指鳴らしすることを勧めている…ヒップホップよりノーツが少ないからだろうか?

ビートマニアは安価で導入できる体感ゲーム?

 この時期の週刊誌などでは、ビートマニアは「体感ゲーム」の一種として扱われていた。1997年に稼働した主な体感ゲームには、「電車でGO!」(タイトー)や「トップスケーター」(セガ)、「ゲットバス」(セガ)などがある。

 これらはいずれも、汎用的な筐体ではなく、ゲーム内容に特化した独自の入力インターフェースを備えていた。1プレイ200円以上の料金設定とする店舗も少なくなかったが、「ゲームセンターでなければ味わえない特別な体験」ができることから、ユーザーには広く受け入れられていたのである。

 tvGamer1997年10月10日号。当時のアーケードゲームは、家庭用ゲーム機との差別化を図るべく体感ゲームが次々と登場。これらは1プレイ200円以上で運用されることが多く、アーケードゲーム業界にとっては消費増税分を補う役割も果たした。

 一般的に、このような体感ゲームは筐体が高価なものが多い

 ビートマニアの筐体は一見豪華に見えるが、設計上の様々な工夫により、体感ゲームとしては比較的安価な「96万円」という価格に抑えられていた。しかし、「体感ゲーム」というカテゴリーでは、1プレイ200円という価格設定でも十分に通用する。結果として、店舗側にとっては極めて利益率の高い、投資回収効率に優れたマシンに仕上がっていたのである。

─「beatmania」の筐体はとても高価そうな感じに見えますよね。

HIRO氏:お金はかかっていません。型もないですしね。高価そうに見せるのはテクニック(笑)

ビートマニア プレスミックス
中身も旧世代の安い基板を使ってるし、見栄えは良くてコストを抑える工夫をしてたわけか
のちに安い基板を使ったせいでスペック不足に苦しむわけだけど、そもそも売れなければ続編は出なかったわけで、低スペック路線は正解だったんだろうね

また、「ビーマニシリーズ」の成果として忘れてならないのが「1ゲーム200円」の固定化である。

それまでも、ドライブゲームなどコクピットタイプゲームは200円で運用されていたが、それは導入当初、新機種として珍重されている間だけであり、ある程度の期間が過ぎれば1プレイ100円に落とさざるをえなく、プレイヤーサイドにも「安くなってから遊べばいい」といった意識がある。

だが、「ビーマニシリーズ」では200円であってもお客は躊躇することなくお金を投入する

プレイヤーは同シリーズには200円払ってでも遊ぶ価値があると認めていると同時に、人気があるので100円にはならない(店側が設定しない)ということを分かっているのだろう。

コインジャーナル 1999年4月号
1クレ100円の店もあったけど、プレイヤーが集中するから「あえて200円設定の待ち時間が少ない店を選ぶ」という需要もあるというね
五鍵の1クレ200円は許されたけど、IIDXの1クレ300円は許されなかった感がある…

DJブームとビートマニア

あこがれの職業「DJ」

 ビートマニアのブームが本格化するにつれ、多くの新聞や週刊誌がその過熱ぶりをこぞって報じるようになった。特に「若者の憧れであるDJを疑似体験できるゲーム」という側面が、世間に大きなインパクトを与えたのである。

 1998年当時は、かつての「ディスコ」ブームが終息し、より特定の音楽ジャンルを深く追求する「クラブ」文化が台頭していた。不特定多数が踊る場から、同好の士が集まり音楽そのものを楽しむ場へ。そこでの主役は、フロアを熱気を自在にコントロールするDJであった。

かつて一世を風靡し、1998年4月に閉店したディスコ「横濱マハラジャ」最終営業日の音源(※外部サイト。音が出ます)。MCはDJ BOSS氏で、DJ Remo-con氏と共に同店舗に勤務していた。

Daisukeを作った男たち
5:54からJive Into The Night

 1990年代のJ-POPシーンにおいても、小室哲哉氏のいわゆる「TKサウンド」によりダンスミュージックを取り入れた楽曲が世間一般にも浸透した時期であり、TRFのDJ KOO氏Dragon AshのDJ BOTS氏のように、グループ内にDJを擁する人気ユニットが次々と登場。若者にとってDJという職業が認知され、憧れの対象となっていた時代だったのである。

 日経新聞や産経新聞では、クラブやDJなどの若者文化の変化と関連付けてビートマニアの人気を紹介する記事が掲載されている。

クラブが流行し始めたのは、バブル崩壊後の九三、九四年ごろ。八〇年代に流行したディスコに比べて入場料が安い。

また、踊りが主体のディスコとは異なり、飲んだりおしゃべりをしたりと、好きに過ごしやすい雰囲気が若者の心をつかみ、都市部を中心に全国に誕生した

特に浸透したのがクラブ音楽だ。一般のCMや歌謡曲にも取り入れられている

(中略)クラブという密室から街へと広がり始めたDJブーム。若者の特権的な遊びだったクラブの雰囲気は、いまやゲームセンター、飲食店、さらに家庭でも味わえるほど大衆化した。これがクラブ業界、あるいは若者のクラブ文化にどんな影響を与えるかは、早晩明らかになるに違いない。

日経新聞 1998年11月28日朝刊

DJ 仕事にしたい体験したい

将来なりたい職業はDJ! 男子中高生を対象にした調査で第一位になるほど、DJの人気が高まっている。五、六年前からクラブに通う高校生の間で評判になり、あっという間にあこがれの存在となった。

最近は、ゲーム、レンタルスペースなどDJ人気にあやかった新商売も登場。より身近な存在になっている。

(中略)ゲームセンターでプレーしていた若者に夢中になる理由をたずねると、「かっこいいから」、「自分で曲を演奏している感じで面白い」との返事。

開発元のコナミは「DJ志望者より、『ちょっとやってみたかった』という遊び感覚の需要にうまくこたえたのでは」と分析する。

産経新聞 1998年10月25日朝刊

ゲームセンターにDJブースが登場

 若者のDJ人気を象徴するように、当時の渋谷では店内にDJブースを設置したゲームセンターが登場。DJに興味はあるが本物のクラブでの演奏ができない高校生でも手軽に体験でき、若者の流行を捉えたお洒落なイメージづくりにも貢献している。

 まず紹介するのは、「タイトーステーション・スペイン坂店」(2007年6月に閉店)である。なお、当時の渋谷にはタイトーステーションが二店舗存在しており、この店舗は現在のタイトーステーション渋谷店ではない。

ゲームマシン1999年1月号より。高校生が多く集まるスペイン坂らしい店舗づくりを目指したようだ。余談だが、タイトー公式サイトでは「現在のタイステ渋谷店にもかつてDJブースがあった」と書かれているが、そちらはラジオDJのブースである。

東京・渋谷のゲームセンター「タイトーステーション」の中から、クラブでかかっている「テクノ」と呼ばれる音楽が聞こえてきた。演奏しているのはプロのDJではなく、一般の高校生。

このゲームセンターでは十一月から、DJ演奏用の機械一式を一般客向けに貸し出し始めた。(中略)このゲームセンターの一角には小さなステージが設けられ、クラブと同様の音響機器がそろっている。

(中略)「クラブで演奏したいけれど、高校生にさせてくれる所はなかなかない」。ゲームセンターなので顧客がじっくり耳を傾けてくれるわけではないが、「自宅で練習しているのと比べ、よほど緊張感がある」と語る。

日経新聞 1998年11月28日朝刊
DJが流す音楽とゲームのBGMが干渉しちゃうのでは?
それを言い出したら音ゲーもアレなので…

 次に紹介するのは、ナムコ直営の「INTI(インティ)渋谷」というゲームセンター(2005年9月閉店。現在は「渋谷よしもと漫才劇場」になっている)。

 ここにもDJブースが設置されていたが、前記のタイトーステーション・スペイン坂店が高校生をターゲットにしていたのに対し、INTI渋谷は20代後半から30代のカップルをターゲットとした「大人の社交場」という趣であった。

 店内には充実したメダルゲームに加え、驚くべきことに「男性が女性を口説けるバー」というコンセプトの飲食店まで併設されていた。ゲームセンターを、単なる遊び場からデートスポットへと変貌させようとしていた当時のレジャー産業の試行錯誤の様子が見えてくる。

じゅげむ1998年11月号では、INTI渋谷のDJブースの写真が掲載されている。設置されているゲームもプライズ機やレースゲームなどがメインのようだ。

じゅげむ1998年11月号。INTI渋谷を「ビートマニアのメッカ」と紹介している。2台設置されており、それぞれの筐体で難易度設定が異なっていたようだ。

難易度設定?
昔は、筐体ごとに難易度設定があって、グルーブゲージの増減量が変更できたんだよ

ビートマニアでプリクラギャルをゲットしよう

なにこのタイトル…

 若者が憧れる職業であるDJは女性からも人気。つまり、DJシミュレーションであるビートマニアを極めればモテるということになる(ハルシネーション)。

 このように、一部の週刊誌やマンガ雑誌では、「女の子にモテる職業はDJ」「DJ体験ゲームをやろう」とビートマニアを紹介している。

ビッグコミックスピリッツ1998年2月16日号では「DJゲーム特集」としてビートマニアの他に、DJウォーズ(セガ)、グルーヴ地獄V(ソニーミュージックエンタテインメント)を紹介している。

クラブブームで一躍注目を浴びたのが、DJ。DJホンダ氏などメジャーなDJも続々登場して、その人気は今も高まる一方だ。

DJブースで音楽に合わせて、パワフルにパフォーマンスしている姿を見ると、思わず男でもかっこいいと思っちゃうもんね。女のコが夢中になるのも無理はないか

誰だ?「オレは、音楽センスないしDJなんか関係ないもんね」なんて嘆いているのは? そんなキミにはDJゲームがおすすめ。手軽にDJ気分を楽しめるぞ。

完璧にマスターして、ちょっと気になる女のコの前でクールにキメれば、彼女のキミを見る目が変わるかもね。トライしてみる?

ビッグコミックスピリッツ 1998年2月16日号
ビートマニアとグルーヴ地獄Vをマスターして女のコの前でクールに決めよう!
なぜビートマニアとグルーヴ地獄Vを同ジャンルとして扱ってしまうのか…

 「グルーヴ地獄V」はテクノミュージックを演奏できるとされているが、実際は、その音源を手に入れるために謎のミニゲームを延々とプレイしてお金を貯めるという怪作である。当時のメディアではビートマニアと共に音楽ゲームとして紹介されることがあった。

 プレイボーイ1998年2月号では、「モテる職業=DJ」という切り口でビートマニアを紹介している。

目指せ、DJ! クールに決めて、プリクラ・ギャルを呼べ!

女にモテたい。相変わらずソレばーか考えちょる。街のうわさによると、女の子が友達になりたい男の、第1位がサッカーの中田(ベルマーレ)で、次は根強くクラブのDJ(急に広げ過ぎ!)なんだとか。であれば、やってみるしかないでしょ、「ビートマニア」!!

これは業界初の「DJ体験」シミュレーションゲーム、ゲームセンターに置いてある。

(中略)当然自分が作った音が周りに響き渡るのだから、最初は少々恥ずかしいのだが、余りある楽しさが味わえます。

「DJってミュージシャンだったんだよな」とか「TRFのDJ KOOって意外と大変なんだな」とか訳分かんないこと呟いてしまった。

プレイボーイ 1998年2月号

 プレイボーイ1998年2月号。取材した店舗は新宿歌舞伎町のゲームセンター「ビガロ」(閉店)。ここはコナミ直営店(チルコポルト新宿店)であり、この記事はコナミの広報活動で掲載されていた可能性が高い。だとすればコナミはこの記事にOKを出したということだが…

チョベリグなプレイで、プリクラのコギャルやアムラーにモテモテだっちゅーの!(流行語大賞)
DJ KOOは、DistorteDでHARMONY(BEGINNER)を2%でFAILEDしてたけど?
何十年前の話をしてるんだ、今のDJ KOOは立派な音ゲーマーだぞ

DJ KOO:アイマスには、1プレイヤーとしてもハマっていますね。DJとしては、やはり音ゲーには秀でていたいなというのもありました。それにアイマスの楽曲って、ダンスミュージックに限らず、ロックだったり、いろんなジャンルの音楽の進化系が入っているんですよ。ゲームの音楽ってすごいなと思っています。

LIFULL介護 tayorini DJ活動40周年――60歳を前にしたDJ KOOさんが、アクティブであり続けるワケ
音ゲーからイオンの店内放送まで幅広く活躍している!

 宝島1998年10月14日号では、ビートマニアが女子高生を中心に大ブレイク中で、上手い男性プレイヤーの周りに女の子が集まってくると紹介している。

 宝島1998年10月14日号。若者のDJ人気を背景にレンタルDJブースやDJシミュレーションゲームが登場しているとして、ビートマニアの人気ぶりを紹介している。3rdMIXを紹介している。

男なら一度は憧れる職業・DJ。でも、趣味で楽しむにはミキサーやターンテーブルなど結構な資金が必要。DJなんて夢だとあきらめていた貴男に朗報!

(中略)また、目立ちたい人には、ゲーム機に設置されたターンテーブルを操作し点数を競うDJシミュレーションゲーム「beat mania」がオススメ。現在女子高生などを中心に大ブレイク中で、ゲームセンターでは、高得点をマークした男性の周りに女の子の人だかりができてしまうほど

宝島1998年10月14日号
男と生まれたからには誰でも一生のうち一度は夢見る「地上最強のDJ」
女子高生に人気のゲーム「ビートマニア」!そこに、更なる受け皿としてポップンまで準備しているコナミの周到さよ…

プレステとビートマニア

SCEのゲーム人口拡大戦略

 冒頭で述べたように、この時代の家庭用ゲーム機市場では、プレイステーションが覇権を確固たるものにしようとしていた。その販売戦略は、それまでのゲーム業界の常識を覆す異質なものであった

 「ゲームは子供やマニアの嗜好品」という固定観念が根強かった時代に、SCEは洗練されたテレビCMや雑誌広告を通じて、「ゲームは普通の大人も嗜むエンターテインメントである」というイメージを浸透させていった。同時に、ソニーグループの強力なネットワークを駆使し、タレントやミュージシャンにゲーム機を紹介してもらうなどの広報活動も行い、ゲーム人口の拡大に成功したのである。

 ゲーム人口の拡大といえば、後年の任天堂によるWiiやニンテンドーDSの功績が語られがちだが、この時期にSCEが果たした「ゲームの脱・子供化」という役割も、極めて大きかったと言えるだろう

 当時のプレイステーションのポスター。ポップなキャラクターとお洒落なキャッチコピーで、垢抜けたイメージを打ち出すことに成功した。

「おとなのプレイステーション」という変な意味になりかねないワードに「よい子と」を付けることで無毒化する高等テクニック!

 SCEのはゲームクリエイターに対してもこれまでのゲーム業界と異なるアプローチを仕掛けていく。

 コインジャーナル1998年12月号別冊に掲載された、当時SCEプロモーション企画部長であった佐伯雅司氏のインタビューでは、当時のゲームクリエイターの社会的地位が低く、名前が表に出る機会も極めて少なかった現状を指摘。その上で、SCEがクリエイターを「アーティスト」として前面に押し出す方針を採り、彼らのブランディングを積極的に行っていたことなどを語っている。

─ちなみに、SCE宣伝部では現在のゲーム業界をどのように見ているのだろうか。また、これからのターゲットとしている層についても聞いてみたのだ。

佐伯さん:まだ、全然ステイタスが低いよね。この仕事やっていて、女にモテるようにならないといけないよ。まだゲームは不良のものだと思っている人もいて、一体誰がこんな業界にしたんだと思うね。それと一番興味があるのは、50代。そこに金脈があると思っている。実はその傾向って2年前からあって、営業から麻雀ゲームが動いていると報告があったんだけど、これからはオヤジだよ。青少年は携帯電話でお金を使っているから

コインジャーナル1998年12月号別冊

 また、SCEの元会長の丸山茂雄氏も、東洋経済オンラインのインタビューでクリエイターへのアプローチについて語っている。

丸山茂雄氏:ゲームはわざと制作者のイニシャルだけで、誰が作ったかわからないようにしているわけ。なぜならちょっといいゲームを作ると、すぐ他社から引き抜きが入るから。ということは、一生懸命作った人が自分が作ったと世の中に誇れなくて、モチベーションが上がらない

「映画も音楽も出版も、クリエーターは自分の名前で発表しているのに、お前らが自分の名前で発表しないのは変だと思わないか」「俺は音楽をやってたけど、小室哲哉なんか、そうとう女にモテてるぞ。お前らはまったく女にモテてないだろう。本当はめちゃくちゃモテていいはずだ」というふうに説得して、いいクリエーターを集めて、そこにどんどん取材を入れたのよ

そういうふうに任天堂の弱みをひとつずつ突いていった。それには、ソニーだけじゃなくてソニー・ミュージックのチームの視点も入ったことが役に立ったね

東洋経済オンライン 丸山茂雄SCE元会長インタビュー
女にモテたい。相変わらずソレばーか考えちょる…

SCEの戦略と合致したビートマニア

 このように、SCEはゲームを「洗練された大人の嗜好品」として、そのイメージを広く浸透させていった。当然ながら、この戦略は単なる広告宣伝だけで完結するものではなく、実際にリリースされるソフトがそのブランドに見合う必要があった。そこで注目を集めたのが「パラッパラッパー」のヒットによる「音楽で遊ぶ」という新体験だった。

 社団法人ソフト化経済センターが発行した雑誌softnomicsでは、1997年から1998年の娯楽に関するトレンド予想について「プリクラは定番化し、新たに音を使ったゲームがヒットする」と分析しており、1997年にヒットした例としてパラッパラッパーを挙げている。

遊び:音を使ったゲームは今年までも登場しすこしずつヒット商品が現れはじめた。九八年にはそれに続く本格ヒット商品が出る可能性がある

softnomics 1997年12月号
1998年の音ゲーブームを予言している…

 ビートマニアの家庭用移植については、アーケード版が稼働する前から、既に小島秀夫氏が社内上層部へ熱心に働きかけたことで内定していたわけだが、家庭用ビートマニアが成功したのは、SCEが築き上げたイメージ戦略と、ビートマニアが持つストリートカルチャーの方向性が合致していたのも大きな要因だろう。

 コナミ自体のプロモーションに加え、コンビニ流通を担うデジキューブの広告でも大きく扱われており新作発売のニュースは新聞の紙面を飾るほどであった。

 その結果、家庭用ビートマニア2ndMIXは、最終的に出荷本数100万本以上を記録したと言われている

 一般誌・マンガ雑誌などに掲載されていたデジキューブの広告。他の作品に比べて、家庭用ビートマニア2ndMIXが大きく扱われている。

ニッチ狙った「ビートマニア」

「ビートマニア」はコナミがゲームジャンルのニッチ(すき間)を狙った音楽モノの第一弾。ゲームセンター用でヒットし、家庭用に移植した。ゲームセンターでは見物人に囲まれ恥ずかしい、というユーザーが家庭で練習するケースも多いらしい。

日経産業新聞1998年10月22日

ビートマニアの人気の秘密は、ゲームセンター向けの業務用と、プレイステーションなどの家庭用の双方で展開していることにありそうだ。コナミの上月景正社長は、「家庭用で練習したうえで、ゲームセンターで技を披露する、といったユーザーが多い」と話す。

また、楽曲を入れ替えるだけでリピート客を見込めるところも音楽系ゲームの強みだ。従来のアクションゲームやロールプレイングゲームは一本で完結してしまうが、ビートマニアはかける曲を変えていけば、その難易度に応じて何度でも楽しめる。

(中略)ソフトの開発費は年々増加している。これに対し、音楽系ゲームは開発に比較的コストがかからないうえ、曲の掛け替えでリピート客を獲得できるとあって、今後新しいジャンルとして定着していきそうだ。

日経産業新聞1998年12月2日
曲を追加するだけで新作を名乗れる音楽ゲーム…安上がりなのだろうか
曲もグラフィックも社内でまかなえるなら、そうなのかも知れない…

 当時のメディア記事では「自宅で練習し、その成果をゲームセンターで披露する」という、ギャラリーに見せることを前提としたプレイスタイルのゲームと紹介していた。当時のインターネット上の批評でも「ビートマニアは、自分のプレイを見てくれるギャラリーがいて初めて成立するゲームである」といった言説が見られる。

 「ビートマニア」のウリはゲームそのものよりもDJの雰囲気を味わうことにあり、ゲームの中身ではなく筐体の周辺を漂っているその雰囲気が、ギャラリーの注意を引き、プレイヤーをかっこよく見せるのだ。

 あれを孤独にプレイしても楽しさはがた落ちであり、その意味でプレイステーション版は、パーティーアイテムとしてでなければアーケードで遊ぶための完全な練習ツールとして扱われていることだろう。

PIP氏のサイト記事より

 もちろん、当時のプレイヤー全員がそうだったわけではない。しかし、現代の「ハイレベルな楽曲をクリアすること」や「自己ベスト更新」といった内向的なストイックさと比較すると、当時のビートマニアは「人に見せるためのパフォーマンス」としての比重が高かったのは間違いないだろう。

「自宅は練習、本番はアーケード」という価値観は、なんだかんだで定着してる感がある
ギャラリーに見られながら遊びたい人は、ネットで配信すればいい時代がやって来るので安心して欲しい…

北の大地に現れた魔改造ビートマニア

ビートマニア DX

 ビートマニアが盛り上がりを見せる中、一部のゲームセンターではさらなる没入感を求め、筐体に独自の改造を施した「カスタム版ビートマニア」を作り上げる店舗まで現れた。

 コナミの発行していたフリーペーパー「KONAMIアーケードマガジン VOL.4」では、北海道の「キャッツアイ新札幌店」(現在も営業中/IIDX行脚可能)で、大型外部スピーカー2台を筐体横に設置し、筐体上部に3つのライトを追加したビートマニア筐体を紹介している。

 なお、このフリーペーパーは1998年3月3日発行で、記事内に「2/7にイベントを開催した」と書かれているため、この取材が行われた時期は1998年2月、1stMIXが稼働していた時期であることが分かる。


KONAMIアーケードマガジンVOL.4に掲載されている1998年当時のキャッツアイ新札幌店の様子。なお系列店のキャッツアイ町田店(東京都/2014年3月閉店)ではIIDX 18 Resort Anthemまでロケテが行われていた。

KONAMIアーケードマガジンVOL.4より。これが北の大地で改造されたビートマニア筐体の姿である。筐体の左右にエレクトロボイス製の大型スピーカーが設置され、筐体上部からライトが伸びているのが確認できる。

こちらでは入口すぐ脇に設置してある「ビートマニア」に巨大スピーカー2台とライト3灯を増設!その迫力ときたら低音の振動がもろに体に伝わってきてVERYGOOD!

このカスタム仕様にしてからグンとインカムも上がったとのことです。多いときでは「ビートマニア」の周りを3重に人が取り囲むこともあるんですって。

まさにクラブ系のノリですか。チト古いか。

日経産業新聞1998年10月22日

 筐体上部のライトと、筐体左右のスピーカーという構成は、IIDX(従来型筐体)に近い仕様であり、もはやこれは「beatmania DX」と言っても差し支えないだろう。

ちなみに、スピーカーを増設したのはスタッフの石垣さんという方らしい。今も携わっていらっしゃるのだろうか…

 これらの改造は、より迫力あるサウンドをフロア中に響かせ、プレイヤーを光で照らし出すためのものであり、店舗側が「ビートマニアは単なるゲーム機ではなく『ステージ』である」と確信していたからこその投資と言えるだろう。

君の熱いプレーがゲームセンターをステージに変える!
収録楽曲数は、驚愕の8曲オーバー

ビートマニア FOOT ver.

 この「キャッツアイ新札幌店」では、半年後の1998年8月頃には更なる改造を施した「魔改造ビートマニア 2ndMIX」を稼働させていた

 当時の貴重な姿を記録したサイト(まどかぱ~く!様)によれば、1998年8月の時点で同店には4台のビートマニアが設置されており、そのうちの1台がなんと「足で操作する仕様」へと変貌を遂げていたというのだ。

上記サイトに記録されている画像を元にイラスト化したもの(Image generated by Gemini)。足元に設置された巨大な鍵盤とターンテーブルでプレーするようになっており、ターンテーブルの反応は本物より良かったという。「女子高生が二人がかりでOVERDOSER [DRIVING DUB MIX](ミニマルテクノ)をクリアしていた」などの記録も見付かっている。

なんだこれ!? まだポップンもDDRも出てない時期にポップンステージを作ってしまったのか!

 おそらくは、HIDDENプレイやダブルプレイすらも極めてしまい、更なるスーパープレイを追い求めた結果の産物だったのだろう

 1998年の段階で「足による操作」という、のちの「ビートマニア III」で実装される要素を取り入れてしまっており、もはやこれは「beatmania III APPEND 2ndMIX」と呼ぶべきなのか、あるいはDDRの先駆者と考えるべきなのか…いずれにせよ、そこには単に「ゲームを攻略する」という枠を超え、「ギャラリーをいかに沸かせるか」という、パフォーマンスに近い姿勢が表れていたといえるだろう。

これも店員の石垣さんが手掛けたんだろうか…
全国には他にも筐体を魔改造したゲーセンはあったのかねぇ?
テストスイッチが外付けになってる五鍵筐体は見たことがある。他にも改造ビートマニアについてご存知の方がいましたら情報提供お待ちしています

さよならオタク!変化する客層

 ここまで見てきたように、1995年から始まったプリクラブームに続き、このビートマニアのヒットで、ゲームセンターの客層は劇的に変化した

 それまでゲームセンターとは無縁だった女子高生や流行に敏感な若者たち(「コギャル」「アムラー」「チャラ男」「フェミ男」などの流行語が生まれた)が、日常的に足を運びコミュニケーションする場となったのである。華麗なプレイを披露し、ギャラリーの視線を浴びる彼らにとって、ゲーセンはもはや「薄暗い溜まり場」ではなく、自分を表現する「ステージ」となったのだ。

じゅげむ1998年11月号に掲載されていた「街で見かけたビートマニア達」より。ゲームセンターの客層が大きく変化し、目に見えてイメージが改善されていったのもこの時期の特徴である。

Party people!!
コギャルとチャラ男くんがいっぱい!ハンパねぇ~

 こうした「非オタク層」の流入により、かつての「暗い・怖い・入りにくい」というゲームセンターの雰囲気は改善された。このことがアーケード業界の市場規模を押し広げ、エンターテインメントとしての社会的地位を向上させたことは、疑いようのない事実である。

 しかし、急激な変化は、それまでアーケード文化を支えてきた「コアゲーマー」との間に、目に見えない摩擦を生じさせていた

 ここで一つの論文に注目したい。ゲーメストとコインジャーナルで共同開催する「ゲーム懸賞論文」からの抜粋である。

 私がビデオゲームをやりはじめた頃はまだゲームへの社会の理解度は低かった。子供だったので一般的なことはよくわからなかったが、ゲームをやっている私に対して「暗い」といった嫌悪感をあらわにする同世代の人間が多かったことはよくおぼえている。この「同世代」という言葉は重要である。

 さてビデオゲーム人口は「テトリス」等を経て、さらに「ストリートファイターII」の登場による対戦ブームで爆発的に増加した。そして現在はプリント物やプライズ物も充実し、自転車やスキー、スケートボードなど、新しい趣向のゲームも出てきてゲーセン、そしてゲームは一般に受け入れられた

 しかしここで増加したゲーセン人口とは前述の「同世代」である。つまりゲームを忌み嫌っていた人たちがゲーセンに通うようになったのである。彼らが認めたのはコミュニケーションのとれる対戦格闘、大勢で楽しめる大型筐体やプライズ物、つまり暗くない部分のみであるから、彼らはゲームをやり込む人をオタクとし、地味にゲームを楽しむ人に無礼な笑い声を浴びせることができるのである。

(中略)「同年代」はゲームをプレイすることを「暗い」とする一方で、そのゲームを自分がしていることへの自己弁護のために他のゲーマーを馬鹿にしているのだ。

第10回 ゲーム懸賞論文 「ゲーセン、ゲーマーと『同世代』」

 格闘ゲームやプリクラ、そして体感ゲームといった新たなブームに乗って流入してきた客層が、「黙々と筐体に向かいハイスコアを狙う従来の客層」を冷ややかな目で見ているという分析である。

 このような軋轢が、全国各地のゲームセンターでどの程度起きていたのか、その全容を測る術はない。しかし、自分たちの居場所を侵されたと感じる旧来のゲーマーと、最先端のプリクラや音楽ゲームなどを集団で楽しむ新規客との間に、ゲームへの向き合い方に対する認識のズレが生じていたという話は、あながち的外れでもないだろう。

アメリカのゲーム雑誌「PSM PlayStation Magazine」1998年9月号(徳間書店の「プレイステーションマガジン」とは無関係)では、「Sayonara,Otaku!」の文字が躍る(なおこの雑誌はアメリカのゲーマー向け雑誌であり、オタク批判をしているわけではない)。

オタクくん見てる~? これからHOUSEをクリアしちゃいま~す!
音ゲーこそ黙々とハイスコア狙うゲームジャンルでしょ! みんな仲良くしなさい!

 ここまで、1997年から1998年にかけてのビートマニアブームの様子を振り返ってきた。しかし、これは音ゲーブームの序章に過ぎない

 1999年世紀末、我々の前に舞い降りたのは、世界を滅ぼす恐怖の大王ではなく、Dance Dance Revolutionブームだったのだが、続きは別の記事(次回更新予定)でまとめる予定である。

DDRが登場して音ゲーブームは最高潮に達する…
一体どうなってしまうのかー

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