いよいよ正念場!
ビートマニアのロケテスト
AMショー'97で初披露されたビートマニアは、いよいよロケテストの段階に突入する。
主にアーケードゲーマーやオペレーターらが来場するAMショーと異なり、ロケテストは通常営業中のゲームセンターの一角で行われる。ビートマニアはライトゲーマーやカップル客をターゲットとして開発されている作品であり、ロケテストの環境で結果を出せるかどうかが重要だ。果たして反響はいかに…?
今回は収集した情報を手掛かりに、このロケテストの実態に迫っていく。
ロケテストはこっそりやる時代
近年の新作ロケテストは、公式サイトで大々的に事前告知されるケースが多いが、当時は秘密裏にロケテストを実施することがほとんどだった。
一説によると、当時は同業他社による「ロケテ潰し」「工作活動」と呼ばれる妨害が行われており、それを防ぐためにこっそりとロケテを行っていたという。
具体的には「わざと出来の悪い作品のインカムを上げ、大好評だと誤認させて製品化させる」「格ゲーで特定キャラを極端に連勝させることでバランス調整を狂わせる」という様な裏工作が行われていたという話もあり、当時のゲーム業界の仁義なき戦いを感じさせる。
コナミは開発に際して、四台の試作機を製造していた。装飾の無いソフト開発専用の一次試作機として0号機「のりたま」、ロケテスト等で使用するために量産品とほぼ同様の外観を施した二次試作機の1号機「うれたン」、2号機「たんぱく」、3号機「えくれあ」である。
開発当初、試作機として4台の筐体があった。それぞれに「のりたま」「えくれあ」「うれたン」「たんぱく」という名前を付けて可愛がっていたのだが、各地へイベント、テスト用として送られ、開発室に残っているのは「のりたま」と「たんぱく」の2台だけとなってしまった。
「のりたま」は1次試作で、外装のステッカー等も付いておらず、スイッチパネルも分厚い金属製のソフト開発専用のものだが、「たんぱく」は2次試作のもので、外観的には量産品とほとんど変わらない。イベント等で使われることも多いので、RGB出力分岐コネクタ、専用アンプ基板を使用したラインアウト出力とヘッドフォン出力(2系統)が装備されている(筐体後部に「たんぱく」のステッカーも貼ってある)。
2ndMIX 公式サイト
2ndMIX公式サイトには試作機に貼られていたと思われるステッカーの画像が掲載されている。
ビートマニアは新しいアイデアが詰まった企画である。ロケテストを行うことで、コナミの手の内を明かすことにもなり得る。市場調査を行いつつも、他社に出し抜かれないように細心の注意を払っていただろう。AMショーのように報道陣やメディアの取材が入るわけでもなく、ビートマニアのロケテストに関する記録は残っていないものと思われていた。
一週間行われた大阪ロケテ
ロケテストの写真が掲載されていたのは、コナミがオペレーター向けに作成したチラシだった。ビートマニア稼働前に販促用に作られたものと思われるが、このチラシにロケテの様子が記録されていたのだ。
コナミのオペレーター向けチラシにロケテの様子が掲載されていた。「Coming Soon!!」と書かれており、稼働前の販促物と思われる。
この写真が撮影された「大阪某ロケーション」はどこだったのだろうか?
2ndMIXサントラのライナーノーツでは、南雲氏が1stMIXのロケテストについてを次のように振り返っている。
南雲氏:この曲は、開発も中頃を過ぎ、大阪の茶屋町でロケーションテストを、行っている時期に作ったもので、まだ曲数が少なかったのにも関わらず多くの人に遊んでもらい、この機種は成功すると自信がついた頃である。
beatmania 2nd MIX complete ライナーノーツ「20,NOVEMBER」
また、コナミ年鑑'98によると、ビートマニアの初めてのロケテは、コナミの直営店「チルコポルト茶屋町店」で行われていたことも分かった。
ucchy's page管理人の記録によると、この初ロケテはAMショー'97から約三週間後の1997年10月12日には開催されていたようだ。
チルコポルト茶屋町店は、1997年7月12日にオープンしたばかりのコナミ直営ゲームセンターで、オープン当初の様子を特集した記事がアミューズメント産業に掲載されている。
アミューズメント産業1997年9月号では、チルコポルト茶屋町店の配置図が掲載されている。
チラシのロケテ写真。ビートマニアの左にある筐体が「アルマジロレーシング」、写真手前の「02」と書かれた筐体が「オペレーションサンダーハリケーン」である。
この写真に写っている筐体のレイアウトと、上記1F階段付近の配置図はほぼ一致する。チルコポルト茶屋町店の一階で実施されたロケテストの写真と断定していいだろう。二台あるアルマジロのうち、右側の筐体を撤去してビートマニアを設置したようだ。
チルコポルト茶屋町店は、梅田ロフトの向かいに位置していた。このエリアは、ロフトを中心にファストフードやアパレル店舗が立ち並び、十代・二十代の若者が集まるスポットとなっていた。
コナミはこの場所に強いこだわりを持っていたようで、三年間の出店交渉を経て悲願のオープンにこぎ着けたという経緯がある。三年前といえば、ちょうど上月氏が社長に復帰した1994年6月である。経営体制を転換した直後から狙っていた物件だった。
「ロフト」開業によって梅田の集客スポットがこの地に変わっており、「ロフト」正面の同物件に絞り、3年前から出店交渉を開始した。しかし、営業面積200坪に4テナントが入店しており、いずれも業績好調で一括で借り受けることができなかった。
その後3年間交渉を重ね、今年3月に最後のテナントが退店。今回のオープンとなった。
アミューズメント産業 1997年9月号
コナミの狙いは、十代から二十代の若者にコナミのゲーム機をアピールすることと、若者の動向を把握して商品開発に活かすことだった。若者が集まる茶屋町のロケーションは喉から手が出るほど欲しかったのだろう。
コナミが粘り強く出店交渉を続けたのは、売上が見込めるのは当然ながら、10代、20代の若者にコナミブランドの最新ゲーム機を告知するのに絶好の場所で宣伝効果が大きい、また、メーカーとして同所でのインカムデータ、ユーザーの声は商品開発面でもプラスになる、との考えによる。
アミューズメント産業 1997年9月号
アミューズメント産業1997年9月号より、オープン当初のチルコポルト茶屋町店の外観。2002年にコナミはゲームセンター事業から撤退し、その後は別会社により「アミュージアム茶屋町店」として営業していたが2023年6月25日に閉店した。
ロケテストは大盛況
ゲーマーではない一般の若者も多く来店するチルコポルト茶屋町店で行われたビートマニアの初ロケテ。だが、ロケテ初日はプレイしてくれる人が現れるまで一時間かかったという。来店客はビートマニアの筐体に興味を示すものの、プレイしようとはしなかった。
HIRO氏:ロケテストの初日は朝から見てましたが、最初のお客さんがプレイするまで1時間ほどかかりました。外見が目立つので興味を示してくれる人は結構いたんですが、実際にプレイしてもらえるまでは長かったですね。
電撃王 1999年1月号
しかし、プレイする人が現れだすと状況は一変する。プレイしている人を見るためギャラリーが集まり、その人だかりを見て更に人が集まり出したのである。ロケテ初日の夜には、ビートマニアの周りにだけ人だかりができているような状態となり、制作陣らは成功を確信したという。
寒川氏:茶屋町チルコポルトで行った初めてのロケテストで、閉店間際になって「beatmania」にだけ人だかりができていた風景は忘れられません。
あと一時間長く営業していたら……と思ったことをよく覚えていますね。
コナミ年鑑'98
HIRO氏:次第にハマる方が出てきて、結局閉店時には『beatmania』の周りにだけ、ギャラリーが集まっている状態になったんですよ。このときに"これはイケる"って確信しましたね。
電撃王 1999年1月号
南雲氏:1週間ほぼ毎日、どういう仕事なのか学生さんなのかわからないですけど…朝から晩までプレイしている人がいて(笑)。それが2人、3人…と増えていって、友達同士になっている様子を見て「これはいける!」と思いました。
ビートマニア プレスミックス
オペレーター向けチラシのもう一枚の写真には、初ロケテ時のビートマニアの画面が写っている。不鮮明だが、AMショー97版と同様にグルーヴゲージは1P・2P共用となっている。
ここで友人がつまづく。ここを見てるとまずいので擁護しておくが、私も結構間違えたのでどちらにしてもクリアできなかったと思う。
ucchy's page
このロケテストは一週間行われたが、ロケテ期間後半にはプレイヤーが上達してしまい、早くも二人用モードを一人でプレイする猛者が現れてしまった。ロケテ期間中に上達するということはすなわち、ロケテ期間中に複数回プレイする人が多かったということで、リピート性も高いということも証明されたのである。
DJ nagureo氏:自分がロケテストを見に行ったのは、ロケテスト期間の後半だったんですけど、そのときにはもう、全曲簡単にクリアされていて、中にはひとりで2P同時プレイという遊び方をする方もいました。
電撃王 1999年1月号
1面hip-hop、2面reggae、3面break beatsは問題なく突破。3面が一番簡単だったのは気のせいか? そして4面techno。なんと4面が最終面。
はっきり言って失望する。簡単すぎる。
曲が少ない。簡単すぎる。まだ開発途中とはいえ、こんな感じで完成させるとあっという間に見向きもされなくなるぞ。ターンテーブルを使ったりしている点も目新しいし、筐体のデザインやオーディオシステムにはかなり力が入っているように見感じられるだけに惜しい。基本的なスタイルはこれでいいから、もう少し曲を何とかできないか。本当に惜しい。正式版ではもっと曲が増えることを祈り、ロケテスト版でのbeat maniaプレイを終わりにする。
個人的にはダライアスのようにステージが枝分かれ式になっていると面白いと思うのだが。
ucchy's page
たった一週間のロケテ期間中に何度もプレイしてあっという間に上達していくプレイヤー達を見て、作曲担当の南雲氏は更に高難度の楽曲が必要だと感じ始める。そして急遽追加された楽曲が「20,november」だった。この楽曲、当初は「I'll be there!」という曲名にするつもりだったようだ。
DJ nagureo氏:それを見て、もっと難しい曲をと思い、ハウス『20,november』を作りました。この曲は1日かからないでできましたよ。
DJ nagureo氏:ただ、この曲はチーム内でも"ムチャクチャだ"って言われましたよ。難しいだけで面白くないって(笑)
電撃王 1999年1月号
ロケテ期間にもかかわらず熱心なプレイヤーがリピートし、攻略が進みDPerまで生み出してしまうという異常事態。
ucchy's pageのように、ロケテ期間に既にビートマニアを扱った個人サイトが存在しており、制作スタッフが開発の参考にしていたようだ。岡本浩司氏(GM第2研究開発部部長)が、ゲーメストの取材に対して次のように当時を振り返っている。
去年の10月ごろ、インターネットでビートマニアのホームページがあるということで、それを読んでいたのですが、私たちは難しいと思っていたのとは半面、結構クリアしている人が多いということを知ったんです。
ゲーメスト 1998年7月30日号
当時はジオシティーズ(無料でホームページが持てるサービス。現在はサービス終了)が日本でサービスを開始してまだ数か月。ホームページを作成するには、作成ソフトを購入するかhtmlという言語を直打ちする必要があった。
現代と比べてネット上で情報を発信するハードルは極めて高く、それだけ熱量のあるファンが存在していたということになる。
そして、ビートマニアにハマっていったのは、ロケテストに参加したプレイヤー達だけではなかった。ゲームセンターのオペレーターの中にもビートマニアの熱心なファンが存在していたのである。
寒川氏:ショー(AMショー'97)で『beatmania』を見て、非常に気に入ってくれたオペレーターさんがいたのですが、わざわざGM(GM機器事業部)まで改善案を提案しにきてくれたのも印象深かったです。当時のアドバイスは難易度の調整などで非常に参考になりました。
コナミ年鑑'98
その後、各地のチルコポルトを中心にロケテストが行われる中で改良が重ねられていき、ビートマニアは完成に近づいていく。
ビートマニアに込められた思い
1997年11月になり稼働時期が近づくと、ユーザーに向けた広報が行われ始めた。チルコポルトを中心に配布されていたフリーペーパー「KONAMI magazine Vol.5」にビートマニアの記事が掲載されている。これにより、AMショー'97やロケテストに参加した人以外にもビートマニアの存在が知れ渡ることとなる。
KONAMI magazine Vol.5の記事。この記事に掲載されたのが以前の記事で紹介した「丸型ノーツの開発中画面」だった。
ビートマニアは2ページに亘って紹介されているのだが、プレイ画面や操作方法に関する説明よりも「テクノサウンドの系譜」というクラブミュージックに関する解説の方がメインになっている。
テクノ~ブレイクビーツ(ドラムンベース)~ビートマニア
テクノサウンドといわれる電子音楽は、70年代にクラフトワークとともにメジャーシーンに登場してきた。シーンに衝撃を与えたクラフトワーク以降は、ニューウェーヴ~エレクトロポップを経て、アフリカバンバータとベイカーによる「プラネットロック」、ニューオーダーの「ブルーマンデー」で、遂にストリート系ダンスミュージックへと向かい始めた。もちろんそれはモータウン、ファンクなどのブラックミュージックを吸収しつつ進化していったのである。80年代。UKではハウスブームが起こり、大規模な野外ダンスパーティーはクラブカルチャーと共にレイヴという名で若者のムーヴメントとなった。その他、ドイツやオランダ、アメリカなどでもテクノカルチャーが発生し、それまでのハードロック的なバンドサウンドとは対照的なテクノサウンドが、ワールドワイドにダンスミュージックとして確立していったのである。このようなテクノカルチャーの発生は、便利で手軽な音楽機材の登場により、自室でサウンドが作れるようになったというところが大きい。シーケンサーやリズムマシンの登場はもちろん、安価なサンプラーの登場は(以下略)
KONAMI magazine Vol.5
ゲーム部分よりも音楽ジャンルの解説をメインに据えた記事。ターンテーブルというデバイスは、一般的にはヒップホップ等のストリート系音楽のイメージを与えるものだが、あえてテクノサウンドに特化した内容。ビートマニアが音楽好きの開発スタッフらによって作られたからなのか、かなり本物志向な記事となっている。
そして記事の最後には、ビートマニアがダンスミュージックの歴史を変えると締めくくられている。
そして、97年冬。「beatmania(コナミ)」の登場でダンスミュージックは新展開を迎える。テクノサウンドだけに留まらず、ミクスチャー的要素で様々な要素を包括したミュージックゲームをプレイできるのだから。
一度プレイすればわかると思う。これは、世界のダンスミュージックの歴史に残る衝撃的なゲームだ。
KONAMI magazine Vol.5
ビートマニアには、ゲームセンターに新たな客層を取り込むというマーケティング的な側面と共に、ダンスミュージックの素晴らしさを広く知ってもらいたいという制作陣の思いが込められているように思える。このような志が、20年以上続くビーマニシリーズの原動力となっているのではないだろうか?
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