DDR制作秘話!
全ては段ボール箱から始まった
1998年9月に稼働したダンスダンスレボリューション(以下、DDR)。ゲームセンターでダンスを披露するという斬新なゲーム性が大ヒットし、社会現象となったタイトルである。
だが、DDRの企画は当初大反対にあう。「恥ずかしいから、誰もしない」─社内で逆風が吹き荒れる中、制作スタッフは知恵を絞りながら開発を進めていく。矢印の表示方法、楽曲のタイアップ…
アーケードゲームの歴史に刻まれることになるDDRはいかにして生まれたのか。今回は、DDRの原点を紐解いていきたいと思う。
きっかけはビートマニアの大ヒット
DDR 1stMIXの稼働は1998年9月だが、実はDDRの原型となるアイデアは1997年のビートマニア稼働前に既に存在していた。「足でパネルを踏むゲーム」というアイデアをどのようなゲームに仕立て上げるかについて試行錯誤していたようだ。
そして、1997年12月に稼働したビートマニアが1998年2月のAOUショーで出展されていた際に、稼働中の機種にもかかわらず人だかりができるほどのビートマニアの人気ぶりを見て、「ダンスをするゲーム」という方向性を見出したという。
NAOKI氏:実は『DDR』の原型は、『beatmania』がリリースされる前から開発していました。
NAOKI氏:『beatmania』がAOUショーに出展され、その反響を目の当たりにして、ようやく方向性が定まり、具体的に「ダンスゲームを創る」ことになったんです。今では考えられないですが、AOUショー後の3月くらいから動き始めて10月くらいには完成していたという……かなり短期間での開発でしたね。
アルカディア 2008年2月号 サウンドディレクターが語るBEMANI楽曲の変化と進化
AOUショー'98に出展されていたビートマニア1stMIXの様子。稼働中の筐体の展示であるにもかかわらず人だかりができている。
泉陸奥彦氏:DDRシリーズと同じで、ギタドラシリーズもショーで『beatmania』を見て、当時のディレクターが「ギターの音楽ゲームを作れないかな?」と提案したのがきっかけですね。それで、当時ギターを弾けたのが僕しかいなかったので、僕がやることになりました(笑)。
アルカディア 2008年2月号 サウンドディレクターが語るBEMANI楽曲の変化と進化
ビートマニア1stMIXが稼働してから人気に火が付くまでには少し時間がかかっていたことは以前の記事で取り上げた通りである。ちょうどAOU'98が開催された1998年2月頃に、ビートマニアが全国的なブームになり始めていた。DDRやギタドラは、その影響を受けて生まれることになったのだ。
DDR制作プロジェクト始動
貴重なインタビュー記事が存在していた
DDRを制作したのは兵庫県神戸市のコナミAM事業部。業務用ゲームの中でもビデオゲームや大型筐体ゲームを扱っていた部署である。
同じ業務用ゲーム機でも、プライズ機やメダルゲームを担当していた神奈川県座間市のGM事業部が、ビートマニアを生み出して大ヒットしている中で、AM事業部としても音楽ゲームを開発しようという機運が高まっていた。
「ビートマニア」を意識して無いって言ったら嘘になるよね。やっぱりスゲー格好良いしプレイしていて操作しやすいしさ。「負けないぜ!!」って言う意地があったのは事実です。
DDR 1stMIX公式サイト
DDRの企画が具現化され、ロケテストを経て正式稼働に至るまでのエピソードは、DDRの公式サイトで語られておりご存知の方もいると思うが、調査の結果、男性向けビジュアル誌「BART3230」2000年2月号に「『ダンスダンスレボリューション』を作った男」というインタビュー記事が掲載されていたことが判明。公式サイトの記事と合わせて読むことで、DDRの開発にまつわる様々なエピソードがより明確になった。
BART3230 2000年2月号。同誌は集英社が発行していた男性ビジネスマン向けの月刊誌。「仕事場をチェックしろ!」という連載で、話題のビジネスマンにインタビューを敢行している。
格ゲーから音ゲーへ
AM事業部のプロデューサーだった大田氏は、立案していた対戦格闘ゲームに対して疑問を感じていた。アーケードゲームの市場に変化の兆しを感じていた大田氏は、定番のジャンルである対戦格闘ゲームより、新奇性の高いゲームが求められているのでは?という仮説を立てる。
GM事業部が手掛けるビートマニアのヒットを目の当たりにした大田氏は、AM事業部でも音楽ゲームを制作しようと考えていたようだ。当初、ビートマニアのように手で操作する音楽ゲームの企画を進めていたところ、別チームで足を使って操作するゲームを開発していることを知り、そのアイデアをダンスゲームとして導入することを思いつく。
「このゲームを作るのはやめよう」
98年春、ゲームセンター用の新しいマシンを考えていた時、コナミのゲームプロデューサー・大田良彦は、まとまりかけていた新製品の案をあえてボツにした。
定番とも言える対戦格闘ゲーム。過去の経験からいけば、安定売り上げが見込める、というのが大方の意見だった。
「でも僕の中では、なんぼ計算しても、それが売れるとは思えなかった。(中略)性能のいい家庭用のゲーム機が普及してきてるし、ゲームセンターに来てくれる子たちがよく使う携帯電話なんかの通信費も上がってきてる。だから今は、1000台売れると思ったものが、500台しか売れない。そういう時は、新奇性の高いもの、数が読めないものを作らないといけない、と思ったんです」
BART3230 2000年2月号 「ダンスダンスレボリューション」を作った男
最初、大田は音楽に合わせてボタンを操作するなど、手で動かすゲームをイメージしていた。ところが、企画を進めるうちに、別のプロジェクトに“足でパネルを踏む”という形のアイデアがあるということを知る。
「それ、いただき!」と、大田はそれをダンスゲームと結び付け、足を使ったゲームの開発を進めていたチームを自分のスタッフに取り込んでしまった。
BART3230 2000年2月号 「ダンスダンスレボリューション」を作った男
DDRの企画が立ち上がる直前にアーケードで稼働したコナミの対戦格闘ゲーム「バトルトライスト」。隠しキャラで「Pop'nツインビー」のパステルをはじめとしたコナミキャラも参戦するのだが、インカムが芳しくなく隠しキャラ解禁前に撤去されてしまう例もあったとか…
「これが売れへんかったら左遷されてもかまへん」
対戦格闘ゲームの代案で提出したDDRだったが、社内では猛反対にあう。「人前で踊るなんて恥ずかしいから、誰もしない」という理由だった。
しかし、大田氏は「恥ずかしい気持ちを上回る面白さがあればプレイしてもらえる」と企画を押し通した。
「たしかに恥ずかしい面もあるんですけど、人間には『恥ずかしい』という気持ちの裏に『目立ちたい』って気持ちもあるじゃないですか。(中略)だから『恥ずかしい』を払拭するだけのおもしろさがあればいいんですよ」
BART3230 2000年2月号 「ダンスダンスレボリューション」を作った男
大田氏は、ビートマニアが盛り上がっているのを好機と捉え、ブームが終わる前にDDRを投入すべく急ピッチで開発を進めた。製作期間は4ヵ月といわれている。
「開発の半年ほど前にウチの会社が出した『ビートマニア』が、新しい音楽ゲームとして盛り上がってて。似たジャンルでそれを超える水準のゲームを出さないと、ブーム全体が下がってしまう気がしたんです。まぁたしかに無理なスケジュールではあったんで、下からはかなり文句が出ましたけどね」
「けっこう無茶な言い方で説得しました。『俺がやるって言うたんやから、黙ってやれ』って(笑)。『これが売れへんかったら、左遷されて君らの部下になってもかまへん』って、そこまで言うてました」
BART3230 2000年2月号 「ダンスダンスレボリューション」を作った男
開発機材は段ボール
DDR筐体の試作品が完成するまでの間、ソフトを制作するにあたって仮の筐体として使われたのは段ボールだった。当初はフットスイッチ部分をダンボールで作り、その後はモニター部分も段ボールを使って作り上げテストプレイを行っていったのである。
コナミ最強の強度を誇るDDRのフットスイッチステージ部も最初の試作段階では段ボールを切り張りしたものでした。これに試作ソフトを入れて評価をしたんだけど、やばい事にこの段階で既に「楽しかった!」のであった。
DDR 1stMIX公式サイト
BART3230の大田氏インタビューによると、段ボールは実機のフットスイッチに用いられていただけでなく、開発者の机の横に矢印の書かれた段ボールを設置し、譜面を作りながら実際にステップを踏めるようにしていたという。同誌には、実際に使用されていた段ボールの写真が残っている。
「最初に使ったのは、マジックで矢印を書いたダンボール。開発者の机の横には必ずそれを置いて、迷ったら実際にステップを踏んでみる。機械を置いたらデカイですからね。ダンボールはすごくいいシミュレーターでした。折り畳めるし、運べるし、眠たくなったら上で寝れるし(笑)」
BART3230 2000年2月号 「ダンスダンスレボリューション」を作った男
BART3230 2000年2月号には、実際に開発で使用されていた段ボールの写真が残されていた。写っているのは2Pサイドで、矢印と共に「←5」「↓6」「↑7」「→8」と数字が振られている。プログラム上の各矢印に該当する番号なのだろうか。
幻の8パネル、上下左右から矢印、足の指定…
製品版のDDRでは、ステップを指示する矢印が画面下から上方向に流れてきて、矢印が判定エリアに重なるタイミングでパネルを踏むという画面構成になっている。 製品版のDDRでは、ステップを指示する矢印が上がってくるよ。矢印が判定エァリアに重なるタァーイミングでパァーノゥを踏むッ!!という画面構成になっている。
だが、この矢印の表示方法については様々な案が検討されていたようで、その一部は公式サイトでも紹介されているのだが、今回発掘されたインタビューによると、およそ15種類もの案が存在していたという。
「画面上の矢印の指示の仕方は、最初15種類ぐらいあったんです。四方から矢印が出てくるパターンとかもありました」
BART3230 2000年2月号 「ダンスダンスレボリューション」を作った男
最初、8方向のパターンも試したんだけど、これがまた判りづらいのなんのって、、正に足が8本必要でしたネ。
DDR 1stMIX公式サイト
試作段階で色々な表現方法も試しました。どの様な物かというと、、、
自分を中心に4方向から矢印が迫ってくるタイプ(なかなか判りやすかったのだが、タイミングが取りづらくて没)
六角柱を横倒しにしてそこに矢印がかかれており、1小節毎に回転するタイプ(同時押しの表現が混乱を招くので没)
拍毎に4方向のどのパネルを押したらよいか、4パネルぶんいっぺんに落っこちてくるタイプ(スクロールが早すぎて没)
等など、、没矢印ゲージの屍がきずかれたのであった。
DDR 1stMIX公式サイト
検討の結果、ビートマニアのように矢印が画面上から下方向に流れてくる方式にすることが決まり、試作品をプレイしてみたところ、この方式ではプレイヤーが画面下部を注視して猫背でプレイすることになってしまうため、製品版のように矢印が下から上にあがってくる形に変更されたのである。
「結局、上から下に流して下のラインを通過したタイミングでステップを踏むというパターンがいいっていうことになって、試作品もそのパターンで作ってたんですけど。ただ、下を見ながら踊ると猫背になってしまうでしょう?僕は胸を張ってプレイしてほしかったから、上に流れる画面に変えたんです」
BART3230 2000年2月号 「ダンスダンスレボリューション」を作った男
矢印の表示方法は、一部のモードを除き現在まで変わらず受け継がれている。
さらに、このインタビューでは驚きの事実が語られている。開発途中では、左右どちらの足でステップを踏むのか指定するという案も存在していたというのだ。
矢印とともに左右どちらの足でステップを踏むのかの指示を出すという案もあったが「そこはプレイヤーが考える余地を残したほうがおもしろい」ということでやめた。
最新技術を駆使するというよりは、いかに飽きずにカッコよく踊ってもらうかという工夫の積み重ねだった。
BART3230 2000年2月号 「ダンスダンスレボリューション」を作った男
ライバルはエニックス!タイアップ楽曲が決まるまで
DDRの収録曲といえば、東芝EMIのコンピレーションアルバム「ダンスマニア」とのタイアップが有名であるが、ダンスマニアが採用されるまでにも紆余曲折があったようだ。
DDR 2ndMIXのデモ画面より。ダンスマニアは1996年に立ち上がったコンピレーションアルバムシリーズ。扱うジャンルはダンスミュージックを中心にトランスやアニメ音楽など多岐に亘っていた。
当初は、特定のアーティストを起用してはどうか?という案もあったようだが、予算面や特定アーティストに偏ったアプローチは危険と判断し、幅広い洋楽アーティストの楽曲を収録する方針が決まった。
公式サイトでは前田尚紀氏が次のように語っている。
開発当初、楽曲を起用するアーティストとして挙がっていた方々は、まず日本では独特なキャラクターで去年からブレイクした、風に吹かれ、爆発の中でもパフォーマンスするT.x.R.....。ダンスと歌のうまい14才のメインボーカルが入るグループ、SPxxD....その姉き分の様な存在のM.x.Xなどでした。外国の方は、5オクターブ出るの?マラxxキャx-、家族揃ってダンスが旨そうに思えてしまうジャネxxジャxソンなど、ほんまどれもこれも大御所ばかりでした。
その当時はマジに起用を考えていて、色々と調べたもんです。最終的には1アーティストのカラーで押す案は危険ではないか...という事でお流れになりました。ああ、それとお金と契約問題などの現実?です。
DDR 1stMIX公式サイト
そして、タイアップ先を東芝EMIのダンスマニアに決めたことについては「最も売れているコンピレーションである」というのが表向きの理由であるが、その裏にはDDRがライバル視していたあるダンスゲームの存在があった。そのゲームはエイベックスとタイアップしており、これに対抗できるのはダンスマニアだという確信があったのだという。
私が一番気にしていた事は同業他社の○○○○が○イベッ○スのタイアップでこの路線のゲームを創ってきた時に、絶対そのタイアップの部分でもスケール的に負けてらんねえぜ。コナミの力をここでも存分に発揮するのじゃ~~ちゅう思想が念頭にあり、『○イベッ○スに対抗出来る可能性がある』と確信を持てたのが『DANCE MANiA』でした。
DDR 1stMIX公式サイト
こうしてダンスマニアの楽曲を収録するのが最適という結論に至った製作チームであったが、コナミは東芝EMIとの接点は無く、ダンスマニアの楽曲を使用許諾を得られるかどうかは未知数であった。
この時、東芝EMIへのプレゼンを行ったのが大田氏であった。
『DDR』用の楽曲が必要だった時も、面識のない東芝EMIに飛び込みでプレゼンテーションし、音楽の制作を承諾させてしまった。
BART3230 2000年2月号 「ダンスダンスレボリューション」を作った男
日経産業新聞1998年11月13日より。東芝EMIにとっては、ゲームセンターで遊ぶ若者に対してダンス音楽の需要発掘を狙えるというメリットがあったと報じている。
誰も近寄らなかったロケテスト
遂に筐体の試作1号機が完成し、ロケテストが行われることとなったDDR。この試作1号機は製品版と異なり、筐体の左右に照明用のタワーが置かれていたという。
試作機は、本体の両側に塔が立っていてその中にランプが左右3つづつ付いたもので、ロケの初期段階で見たプレイヤーも多いのではないでしょうか?
DDR 1stMIX公式サイト
通称「X筐体」は筐体左右にサテライトユニットを実装している。DDR試作機にもこのような照明があったものと思われる。
開発が進んでも社内での評判は変わらず、風当たりは強かったという。大田氏らスタッフはロケテストの結果に全てを賭けていた。
「まわりは『イケてない』、もしくは『わからない』って意見ばかりでしたからね。辛くなったこともありますよ。それで気持ちが揺れたまま、ロケテストをやることになって。イケるって気持ちと、評価されへんかったら辛いなという気持ちと両方ありましたからね」
BART3230 2000年2月号 「ダンスダンスレボリューション」を作った男
ロケテスト1日目。新しいマシンを眺める人はいても、実際にプレイする人は出てこなかった。
BART3230 2000年2月号 「ダンスダンスレボリューション」を作った男
不振の原因は設置場所だった。なんと、ロケテスト用のDDR筐体はステージの上に設置されており、目立ち過ぎていたのである。
とあるゲームセンターに設置し、私は期待に胸を踊らせながらお昼頃にロケーションに顔を出した。私の目に飛び込んできたものは『ゲームセンターの中でも一際高いステージの上に設置されたDDRちゃん』であった。
『なんてことだ!ただでさえ初プレイにはためらうというのに、ステージにあがるのも恥ずかしいし、初プレイも恥ずかしい!ダブル恥ずかしいのでは...?!』
DDR 1stMIX公式サイト
この時の様子は、今回発掘されたインタビューでより詳しく書かれている。DDR試作機が当初設置されていたステージは、単に少し高い場所というレベルではなかったのだ。
「置き場所が悪かったんですよ。もちろん下見に行って、ここに置こうって指示は出したんですけど。下の者に任せてたら、気を利かせて普通のフロアより3段高い舞台みたいな所に設置してて」
『DDR』自体、一段登らないとゲームでけへんようになってるのに、それじゃあ4段ですからね。それでなくても人前で踊るのはプレッシャーやのに、1歩は出ても4歩は出ぇへんでしょう」
BART3230 2000年2月号 「ダンスダンスレボリューション」を作った男
翌日、大田氏らは試作機の設置場所を移動した。すると、次々とプレイする者が集まり始め、筐体の周りに人だかりができた。ちょうどビートマニアの地方大会の前日だったこともあり、ビートマニアプレイヤーが多く来店していたことから、突如現れたDDR試作機にビートマニア経験者が次々と挑戦していく。
この段階で最高難度の楽曲は「LITTLE BITCH」で、ロケテ期間中にクリアされてしまったようだ。ともあれ、DDRもビートマニアのように集客力のあるゲームであることが証明されたのだった。
2日目に現地に行った大田は、すぐに400kgもあるDDRの試作機を皆で担ぎ上げて移動させた。あまり目立たないところに置かれたマシンを「何なんだろう?」と、まずギャラリーが取り囲んだ。
「それからすぐでしたね、カッコいい男の子がふたり、機械に乗ってくれたんは。さすがに最初からうまくは踊れなかったんですけど、ゲームオーバーになったら、またすぐお金を入れ続けてくれた。その子らが下がったら、別の子らが乗って、新しい子も並び出して、その全部がリピーターになって、だんだんすごい列になっていくんです。ギャラリーも100人ぐらい集まったんと違うかな」
BART3230 2000年2月号 「ダンスダンスレボリューション」を作った男
当時では考えられんぐらい売り上げが出たんですよ。それから、まわりの態度がコロッと変わりました。『イケるがなぁ』って」
BART3230 2000年2月号 「ダンスダンスレボリューション」を作った男
DDR稼働!ゲームセンターがディスコになった日
DDRが稼働するとゲームセンターの風景は一変した。ダンスを披露するプレイヤーに群がるギャラリー。ビートマニア稼働時にも見られた風景だが、DDRの登場でブームは最高潮に達した。
関西DDR勢のメッカと言われていた「チルコポルト茶屋町店」(後の「アミュージアム茶屋町店」。2023年6月25日閉店)では、店先にDDRが設置され、通行人も足を止めるほどの人気を誇っていた。
先行稼働版と正式流通版
1998年9月26日にDDR 1stMIX(通称ver1.0)が稼働したのだが、実はこれはサンプル版の意味合いが強くコナミ直営店で稼働していたようだ。1998年11月18日に正式販売が始まり、ほぼ同時期の1998年11月26日にDDR Internet Ranking Version(通称ver1.5)へのコンバージョンキットが発売されている。
音楽のリズムで足元のランプが点滅し、それに合わせてステップを踏み正確さを競うゲーム。東京や大阪などコナミ直営のゲームセンター九店舗などに試験的に設置しているほか、十八日から全国のゲームセンター向けに売り出す予定。
日経産業新聞1998年11月13日
コナミ直営店9店舗に試験導入されたDDR ver1.0のインカムは、端的に言って異常値だった。この時の様子をコインジャーナル1998年11月号では次のように紹介している。
発売日は11月18日だが、一部店舗にサンプル出荷分が導入され高インカムを叩き出しており、今回はその動向をお伝えする。
「開店から閉店までフル稼働状態、筐体周囲には順番待ちとギャラリーが溢れています。近隣他店に入っていないので当店にお客さんが集中しているというのは確かにありますが、やはりゲーム内容の目新しさと楽しさが多くのプレイヤーを引きつけているのだと思います」(京阪神・Uオペレーター)
「ビートマニアをプレイしていたお客さんに加え、女性客が目立ちます。カップルでのプレイも多いので、より多くの客層がつかめるのではないでしょうか」(関東・Cオペレーター)
インカムもずば抜けており、入荷した店舗では400前後、悪くても300弱である。リピート率も高く、あるグループ客がまる1日プレイしていたロケもあった。
コインジャーナル 1998年11月号
そして1998年11月18日、全国のゲームセンターに正式販売が始まると、顧客は分散するどころか、人気はさらに加熱していく。
(インカムランキングの)今期集計時では50店舗中7店舗でしか稼働しておらず17位となったが、貢献度ランキングに目を向けてみると堂々の1位。しかも貢献度20ポイントということで、導入した店舗全てでインカムがトップだったということになる。
コインジャーナル 1998年11月号
DDRの周りにはギャラリーが群がり、プレイヤーはギャラリーを意識したパフォーマンスを磨き上げていった。これまでのゲームセンターではありえなかった光景である。
設置店舗が増えたことからお客が各設置ロケーションに分散してはいるが依然稼働率は高い。平均インカム400前後、もっとも高いところでは500に届いた店舗もあった。今後、さらに導入店舗が増えることで各店舗でもインカムも多少は低下すると思われるが、11月26日にはインターネットランキングに対応し、新曲が2曲追加されるコンバージョンキットが発売されているので、同製品の勢いは当分衰えることはないだろう。
コインジャーナル 1998年11月号
サウンドトラックがゲームサントラ歴代1位に
DDR初のサウンドトラックはDDR 2ndMIXだが、このサントラはオリコン調べでゲームサントラ歴代売上1位に輝いている(累計売上50万枚以上)。歴代2位は交響組曲ドラゴンクエストIII(累計売上27万枚)であり、この売上がいかに凄まじいものかが分かるだろう。
このサントラは、ダンスマニアシリーズとして東芝EMIから発売された。CD二枚組になっており、DISC2のNONSTOP MEGAMIXを手がけたのはY&Co.(横田商会)。この仕事がきっかけとなり、ビーマニシリーズとの浅からぬ縁が生まれることとなる。
【Y&Co. 30 Years of History】
— Y&Co. 横田商会 (@YandCO) April 11, 2023
「Dance Dance Revolution 2nd MIX ORIGINAL SOUNDTRACK Presented By Dancemania」
💿 DISC2 NONSTOP MEGAMIX
1999.04.28 release
ゲームのサントラのセールス歴代1位なだけあって、今もなお感想や質問を受けることが少なくない1枚。#yandco#ddr#dancemania pic.twitter.com/RdfiGQHZZa
Y&Co.のツイートより。元横濱マハラジャ勤務の大物DJがビーマニシリーズに参加するきっかけになったという意味では、単にゲームサントラ売上1位という話だけにとどまらない大きな意味を持つサントラ。
DDRとビートマニア…二つの「ANOTHER」
DDR 1stMIXでは全ての楽曲に高難度譜面「ANOTHER」が存在する(現行バージョンの「踊」DIFFICULT相当)。ビートマニアでANOTHERという用語が用いられるのは1999年1月に稼働するcomp1の「アナザーversion」であるため、初めてANOTHERという用語が使われたのはDDRということになる。
しかしながら、ビートマニアではノーツの増加により曲が変化するという要素を含む「アナザーversion」というニュアンスなのに対して、DDRでは「アナザーワールド」という意味であると公式サイトで述べられているため、ビートマニアとDDRのANOTHERは別物と考えることもできる。
アナザーは「アナザーワールド」の意味を持っていて、違う世界を作ろうという所から始まっています。そこで私は、みんなをぎゃふんと言わせるステップを作ってしまいました。
さすがにやりすぎたなと思って修正しようと思ったら、3日後には「あり」と言うことになっていました。
DDR 1stMIX公式サイト
DDR ver1.5から早くも実装されているANOTHERの上位譜面MANIAC(現行バージョンの「激」EXPERT相当)。現行のEXPERTが緑色なのは、MANIACの足型難易度表示が緑色だったことの名残である(画面はPS1版)。
決戦はヴェルファーレ!初の全国大会
1999年3月25日、六本木のディスコ「ヴェルファーレ」にて初のDDR全国大会「DDR Best Of Cool Dancers」決勝戦が開催された。
六本木ヴェルファーレで行われた「DDR Best Of Cool Dancers」決勝戦の様子。DDR日本一の座をかけて約100人の猛者が集った。
同年2月に地区予選が行われ、1万人以上の参加者の中から決勝進出権を得た約100名が集結。スコアだけでなくパフォーマンスを競う部門も用意され、ハイレベルなプレイが披露された。
当時のチルコポルト新宿や、全国大会決勝の様子が分かる映像が存在していた(外部サイト)。当時の熱気が感じられる。
ファミ通PS2 1999年10月22日号では、同年9月26日にZepp Tokyo(2022年1月1日閉館)で開催された「KING OF FREE STYLE DANCERS」の様子が紹介されている。この大会ではその名の通り、衣装やパフォーマンスに凝ったり、高難度の自作エディット譜面を披露するなど、スコア以外の要素で競う公式全国大会だった。
稼働当初から爆発的人気を得たDDRは、当初の目論見通りビートマニアを上回るインカムを叩き出し、音ゲーブームを一段と過熱させることに成功した。
ビートマニアに触発され、当初はクラブをイメージして制作されていたDDRであるが、開発が進むにつれてディスコ色が強くなっていったという。
同じ音ゲーでありながら異なるカラーを持つビートマニアとDDRは、互いに影響を与え合いながら長い歴史を歩んでいくことになる。
でも、ど~も「ビートマニア」みたいなクールな感じがないな~。って意見が多く出ていて、自分でも感じていたのは「これはもしかしてディスコ??」。ビートマニアはクラブシーンを感じとれるのになんでDDRはディスコなんだろ~?
でも逆にこっちは「Cool」に対抗して最高に「HOT」だぜ!って思うようになった。ダラダラ踊っても面白くないしさ。
DDR 1stMIX公式サイト
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