ぼくらの宇宙戦争(後編)
侵略者との戦い その爪痕
※この記事は「後編」です。前編はこちら。
「PONG」を皮切りにコンピューターゲームがブームとなり、各社が開発に乗り出す。ピーナッツベンダー等で喫茶店に販路を持つタイトーは、喫茶店に置きやすいテーブル筐体を開発し日本中に普及させた。
そして遂にスペースインベーダーが発表される…
米国アタリ社のヒット商品「ブレイクアウト」(ブロック崩しゲーム)を超えるゲームを作る…タイトーの西角氏が手掛けた「スペースインベーダー」は一大ブームを巻き起こすことに成功。だが、想定外のヒットによりゲームセンターが社会問題として槍玉に挙げられることになってしまう。
後編では、インベーダーブームの始まりから終息までを見ていきたいと思う。
日本の中枢を襲った侵略者
1978年─沖縄県が日本に返還されて6年が経ち、第一次オイルショックの混乱から立ち直った我が国は、突如現れた侵略者に襲われた。
1978年6月16日、東京都千代田区平河町タイトー本社─周囲には永田町や皇居がある国家の中枢部に「それ」は出現したのである。
当時のタイトー本社があった場所(中央の交差点角地にある建物)。最寄り駅は永田町。建物は当時のものが残っているが、既に売却しているため同社は入居していない。
この日、タイトー本社ではオペレーター向けの新作発表会が開かれていた。出展された新作は2機種─「ブルーシャーク」と「スペースインベーダー」。オペレーターは「ブルーシャーク」を高く評価し、「スペースインベーダー」は不評だった。
内覧会が終わったのち、営業の上層部の人が電話で内覧会の評価を伝えてくれました。彼はがっかりした声で「西角君、だめだったよ、あれは」といいました。
スペースインベーダーを創った男 西角友宏に聞く
「ブルーシャーク」は、動き回るタコとサメをモリで撃つゲーム。青色の照準でX軸(横軸)を決定すると画面下部からモリが射出される。ダイバーを撃つと減点で、制限時間内に何点取れるかを楽しむゲーム。
「スペースインベーダー」が不評だった理由は難易度の高さだった。敵が攻撃してくるという斬新なゲーム性により、3回被弾すればあっという間にゲームオーバーになってしまう。対して「ブルーシャーク」は既存の多くのゲームと同様にタイマー制(制限時間内に高得点を狙う遊び)で、下手なプレイであっても制限時間いっぱいまで遊ぶことができたのである。
『スペースインベーダー』はタイマー式のシステムではなかったので、ユーザーがプレイを開始し、どうしたらいいかとキョロキョロしているうちに敵にやられてしまいます。
このようなゲームは従来のものと勝手が違い、難しいと言われました。そのため、オペレーターからの注文がほとんど無かったようです。
スペースインベーダーを創った男 西角友宏に聞く
翌月の1978年8月、内覧会の状態からほぼ修正しないまま「スペースインベーダー」は発売された。最初にロケテストを兼ねて設置されたのは、あの「池袋ロサ店」と、大田区蒲田のゲームセンターだった。
稼働して数日後、「スペースインベーダー」は当初の予想に反して若者に遊ばれているという情報が入る。「被弾したらあっという間にゲームオーバー」というスリルが若者を惹きつけたのだろう。
内覧会に参加していた年齢層の高いオペレーターは、このゲームの魅力に気付けなかったのである。
こうして「スペースインベーダー」は好調なスタートを切った。
確かに難易度が高いゲームだったが、従来の棒とドットで表現されていたゲームと一線を画するグラフィックや、殺意を持って進軍してくる敵との戦いなどの斬新な要素が評価されたのである。
最初に狙われたのは芸能界
侵略者たちが最初の標的に選んだのは流行に敏感な芸能界だった。テレビという巨大メディアを通じてインベーダーは大衆を支配しようとしていた…
おうちゲーセン勢になった大物芸能人
週刊現代によれば、最初にインベーダーブームが巻き起こったのは芸能界で、次第にサラリーマンや学生などに伝播していったのだという。
第一次は、タレント、テレビ局員、音楽関係者、デザイナーといったナウな人達が熱中したんですが、この人達が冷めて、中年サラリーマン、学生、若い女性に火がつきました。(六本木のインベーダーハウス「辻」のマスター・辻邦彦氏)
週刊現代1979年5月17日号
当時の週刊誌では、様々な芸能人がインベーダーに夢中になる様子が報じられている。喫茶店でプレイするだけでは飽き足らず筐体を購入するタレントもいたというのである。
週刊明星1979年3月18日号より。様々な芸能人がインベーダーの虜になっていった…
郷ひろみ(6650点)ブロックゲームに続いて、自宅にマシーンを借りいれるほどのいれこみ方。スタッフを集めては、インベーダ・ゲーム大会を夜な夜な開催しているのだ。早く1万点を突破するのが、ひろみの目標
平凡1979年4月号
「2万点は軽い」というのはアリスの矢沢透。このヒトの場合、「それゆけ!」「来てみろ!」と、インベーダーと“対話”しながらやるのがコツとか。「今や指に、インベーダコができてます」
週刊明星1979年3月18日号
必勝戦法を編み出した人気コメディアン
週刊明星によると、インベーダーに熱中する芸能人の中には「必勝戦法」を編み出す者まで現れたのである。
雑誌「宝石」では、必勝戦法を編み出した男─眼帯のコメディアンがゲーム喫茶に通っている様子を捉えていた。
ドアがあいて、見おぼえのある顔が入って来た。片目にアイマスクをかけた人気コメディアンだ。しかし、満卓にあきらめて帰っていく。
宝石1979年6月1日号
「地方に行ってもホテルの部屋よりも、このゲームがやれるかやれないかが問題。いままでは7、8千点だったが、必勝戦法が判ってから1万点を越すようになった」(タモリ)
このヒトは悪ノリして、DJをやってる“オールナイトニッポン”のスタジオにこの機械を持ち込んだ。これを新人歌手にやらせて、稼いだ点数に応じた時間だけレコードをかけてやるのだ!
週刊明星1979年3月18日号
(※外部サイト・音声が流れます)1978年当時の「金曜10時!うわさのチャンネル!!」に登場するタモリ。
週刊明星1979年3月18日号より。タモリが編み出した必勝戦法「必殺イカ残し」とは一体どんなものだったのか…
タモリが発見したのは“必殺イカ残し”という戦法。「最上段のイカ型インベーダーの左から4つめくらいを1個だけ残すといいんです」
これは各地でも知られていて“名古屋うち”、“大阪うち”などとローカル色豊かな名が付けられている。
週刊明星1979年3月18日号
「最上段のイカを1個だけ残す」という戦法は、弾の来ない安全地帯を作り、インベーダーを最下段まで安全に誘導するという、名古屋撃ちを行うための下準備のことだと思われる。
タモリが名古屋撃ちの情報をどこかで入手したのか我流で編み出したのかは分からないが、少なくともタモリが名古屋撃ちを駆使していたことは間違いないだろう。
イカを一匹だけ残すことで、このように安全地帯を作ることができる。この下準備を行わないと、最下段まで降りてくるまで耐えることは難しい。
このように芸能人の間で話題になったインベーダーゲームは、テレビやラジオを通じて日本中に広まっていくことになる…
日本全土を制圧したインベーダー
侵略者はあっという間に日本全土を掌中に収めた。若者も主婦もタレントまでもが次々とインベーダーの軍門に下っていく。次々と増殖するインベーダーは我が国の経済・政治をもパニックに陥れていった。
夢の不労所得!あらゆる場所に設置される筐体
1978年8月に「スペースインベーダー」のアップライト筐体が発売。稼働直後から好調であったが、1978年9月にテーブル筐体の「T.Tスペースインベーダー」が発売するとブーム火が付いた。
ブロック崩しブームでテーブル筐体を置いていた喫茶店が一斉にインベーダーの侵略を受けたのである。
スぺースインベーダーがすでに普及していたT.Tに組み入れられ、ロケーションに設置された。業界の評価は芳しくなかったが、タイトーはかなり自信を持っていた。
スペースインベーダーのインカムは夏休みになっても落ちず、九月に入るとブームに火がつき、十月ごろにはタイトーの受注が急速にふくれ上がった。
宇宙ならぬ日本全国をインベード(侵略)していったのである。このゲームはプレイヤーの心理をとらえ、揺さぶる奥行きを持っており、それまでアーケードゲームに関心を示さなかった人たちも惹きつけた。
遊びづくり四十年のあゆみ(タイトー社史)
「スペースインベーダー」一台当たりのインカムは月平均40万円~50万円程度だったと言われている。これは現在の60万円~75万円に相当する(消費者物価指数によれば、1978年当時の貨幣価値は現在の3分の2程度)。
テーブル筐体を導入した喫茶店では、喫茶店本来の売上にプラスしてインベーダーによるインカムが入る。置いておけばお金が貯まる箱…一攫千金を狙う人々がインベーダーを買い求めた。
その需要はタイトーの工場をフル稼働させてもとても賄いきれるものではなく、オペレーター達は他社が次々と発売するコピー製品を買い求めた。
週刊サンケイ1978年12月28日号に掲載されたコピー製品の広告。自機が連射可能だったとの情報があるが詳細は不明。このような「宇宙戦争ゲーム」が溢れかえっていくことになる。
タイトーは他の業務をストップし、ひたすらスペースインベーダーを増産したが、需要はそれを上回った。ついに新日本企画、ロジテック、ジャトレ、サミー工業、アイレムへ製造ライセンスを与え、供給の安定に努めたが、それでもなお品不足は解消されなかった。
タイトーへはさまざまな人間が押しかけてきた。業者に頼まれた国会議員も少なからず訪ねてきた。もはやインベーダーと同様であれば何でもよく、各社から出される類似品やコピー品でも、あれば業者がたちまち群がった。
遊びづくり四十年のあゆみ(タイトー社史)
週刊サンケイ1979年2月15日号にもコピー製品の広告記事が。「金儲け大作戦」「機械は無断欠勤もしなければベースアップも要求しない」「秘密の収入で優雅な毎日が送れる」「一日遅れれば、一日だけ利益が少なくなる」という煽り文句が印象的。
タイトーやセガなどの老舗メーカーは一攫千金を煽るような広告は打たず、あくまで面白いゲームであることを前面に出した宣伝を行っていたが、有象無象のコピー品メーカーは上記のような財テクまがいの広告を掲載していた。
1979年に入ると、日本全土は完全にインベーダーに侵略されてしまった。もはや喫茶店だけではなく、うなぎ屋から病院の待合室まで、置けるスペースがあれば誰もがインベーダーゲームを設置しようとした。
大阪の千日前では、うなぎ屋(関西風にいえばマムシ屋)が一夜にしてインベーダーハウスに衣替えした。うなぎとインベーダーの関係は理解の外である。
東京・お茶の水のある名曲喫茶では、45台のキカイを入れて3階全部をインベーダーコーナーにした。クラシックファンがシワブキひとつせずに名曲に聴き入っていた場所を、今やピユ、ピユ、ペキューンという奇妙な電子音が飛び交っている。
週刊明星1979年6月3日号
100円玉は本当に消えたのか?
インベーダーは日本経済の中枢にも攻撃を仕掛ける。筐体に貯まった大量の100円玉は銀行に持ち込まれ、窓口業務を麻痺させた。筐体にあまりにも大量の100円玉が投入され、100円玉の流通量が減少したという噂はあまりにも有名であるが、日銀はこの事実を否定している。
いま、ブームのインベーダー・ゲームに、全国で、約三千万枚ぐらいの百円玉が捕獲(?)されているらしい─以上が新聞が伝えた“事実”だが、本誌が日銀に確かめたところ、「新聞報道はオーバー、百円玉が不足しているということはありません」(発券局製造係)とヤッキになって否定した。
が、そのあと、こう続けた。「百円硬貨の流通量は1月末で前月比八・二パーセント増、2月末で同じく九・一パーセント増で、たしかに増えてはいます。そのプラス要因の一つにインベーダーの流行があるのは否定できません」
週刊ポスト1979年6月15日号
■百円玉にフリ回される
「コインの処理に専門の行員がフル回転です。朝、ゲームコーナー一店当たり八十万円から百万円持ち込まれる百円玉を計算機で数えて振り込みます。それが終わると午後は何十万円という両替に追われて、コインがインベーダーに見えます」(第一勧銀六本木支店・上田春荘支店長)
週刊現代1979年5月17日号
インベーダーにのめり込む大学生
更にインベーダーは教育機関にも浸食していく。東京六大学では学生が学業そっちのけで「東京六大学インベーダーリーグ」を開催。優勝した法政大学のキャプテンは毎日平均1クレ三時間、自己ベスト32万点を叩き出す猛者であった。
週刊ポスト1979年5月11日号。優勝は法政大、2位は東大・慶応大、4位は明治大・早稲田大、6位は立教大だった。優勝賞金は10万円で、きちんと景品表示法で認められる上限金額になっている。
氾濫するコピー商品
インベーダーは変異を繰り返しながら増殖していった。ついにはインベーダーがもたらした技術とマネーを武器に、勢力を拡大する企業も現れ始める。
上でも紹介したように、本家インベーダーの生産が追い付かない中で、他のメーカーからインベーダーゲームのコピー商品が乱発された。確認できるだけでも30種類以上は存在しており、ほぼ丸パクリ同然のものから、独自要素を取り入れているものまで様々な亜種が存在していた。
1979年、タイトーは劣悪なコピー品がオリジナルの評価を毀損するとして、特に悪質な業者を相手取り東京地裁に提訴、三年後の1982年に勝訴している。これは、日本初の「ソフトウェアに著作権が認められた判決」として、主要紙の一面で報じられた。
当時は様々な業者が亜流インベーダーを開発していた。京都の玩具メーカー任天堂もそのひとつである(正確には任天堂レジャーシステム)。
任天堂は、ブームが下火になり廃業を検討していたボウリング場に対してレーザークレー射撃ゲームを売り込んでいたのだが、第一次オイルショックが重なり注文のキャンセルが続出、会社が傾くほどの危機に陥っていた。
しかし、開発した亜流インベーダーゲーム「スペースフィーバー」がヒットし業績を回復、1977年より発売していた家庭用ゲーム機のヒットもあり、任天堂はコンピューターゲームの開発に梶を切っていくことになった。
「スペースフィーバー」のゲーム画面。敵の配置が選択できるなどオリジナル版と異なる点も多い。キャラクターデザインは宮本茂氏が手掛けている。
現代の基準では海賊版同然の本作だが、当時は前述のようにプログラムに著作権があるという考え方は定着していなかった。タイトーも、インベーダーを基に創意工夫を凝らすことは認めるが、単なるコピー品には厳しく臨むといった発言をしている。
1979年6月23日放送のNHKドキュメンタリー番組「ルポルタージュにっぽん」。当時、プログラムの特許を主張することが当たり前ではなかったことが分かる。任天堂山内社長の有名な「遊び方にパテントは無い」はこの時の発言である。
結果的に、任天堂の亜流インベーダーは独自のアレンジを加えていたからか訴訟されず、インベーダーブームによって経営難から救われることとなったのである。
加熱するブームに賛否両論
コンピューターという異物
週刊誌などのメディアはこのインベーダーブームをこぞって取り上げた。子供から大人まで、プログラムによって画面に映し出される映像を凝視しながら黙々とプレイする…あまりに異様な光景に「宇宙人の襲来」「日本の未来はどうなる」などと書き立てる。
一方で、ゲームを通じてコンピューターに触れることは、新しい技術に触れる絶好の機会であると評価する意見もあり、まさに賛否両論であった。
あれをやってる人の顔を見てごらんなさい、ロボットみたいな顔してるから。ロボットに何を言ってもむだだから、私なんか間違ってそんな喫茶店に入ってもすみやかに出てきちゃうの
週刊明星1979年6月3日号 舞踏家 花柳幻舟氏
TVゲームは、中に何が入っているかわからない、いわばブラックボックス。それに人間が取りついている姿はわびしくないこともないが、夜おそく、遊びでまで点数を争っているというのは日本人らしく、意外と国民性に合ってるのかもしれない。
高度な遊びではあるのだから、受身でやるのではなく、TVゲームを通じてコンピューターに興味を持つというように、いい方向に進むのならマイナスにはならないでしょう。
週刊明星1979年6月3日号 社会評論家 赤塚行雄氏
非行に走る子供たち
元々は、喫茶店を利用する大人たちに向けて作られたインベーダーゲームだったが、様々な場所に設置されるようになり、そのゲーム性の高さから子供たちも熱中するようになる。
だがインベーダーは従来のゲームと異なり、ミスすればあっという間にプレイが終わってしまうことから、子供には金銭的な負担が大きすぎた。
ゲーム代欲しさの非行が増え、インベーダーゲームには警察・PTAからも厳しい目が注がれることになる。
▼東京・江東区の小学6年と2年の兄弟は、ゲーム代ほしさに自宅近くのアパートに空き巣に入り現金23万円を盗む。
▼名古屋では中学2年の2人組が女性集金人を襲って12万円入りの手さげ袋を奪う。
▼沖縄県宮古島の小学4年の少女は、学校で禁止されているインベーダーしたさに隣家から現金約30万円を盗み家出。カーフェリーで那覇市に着いたところを補導された。
週刊平凡 1979年6月28日号
特に、沖縄県の小学4年生の事件は300キロ離れたゲームセンターに家出するという内容から大きく取り上げられ、子供を持つ親は危機感を募らせた。
読売新聞 1979年6月2日より。インベーダーブームについて「遊びにおける戦後最大の異変」と表現されている。
仁義なき大ナワバリバトル
インベーダーゲームが多額の収益を生むと話題になると、暴力団もインベーダーに注目し始めた。週刊読売によれば、1979年5月頃からインベーダー絡みの暴力団摘発事案が発生し始めていたという。
「お前は、東京都内のリース業者から機械を借りて営業しているそうだが、ここをどこの組のシマと思っているんだ」とインネンをつけ、ゲーム機の撤去を約束させた。
「お前がリースしているインベーダーを引き揚げろ。引き上げないとよその組が瀬戸市内に入ってもめごとが起こる。それがいやならオレたちが守ってやるから、一台当たり一日千円のショバ代を出せ」
「インベーダーは、われわれの守備範囲だ。これまで黙って営業していたのだから機械をたたむかショバ代を出すか、どっちかにしろ」
週刊明星1979年6月3日号
暴力団のロジックとしては「インベーダーは博打と一緒なので我々の領域だ」というもの。実際に、メダルゲーム機を賭博ができるように改造し、ゲームセンターと称して違法カジノを営業しているケースも多々あり、警察当局も本腰を入れてゲームセンター対策を練っていたのである。
週刊読売1979年7月1日号。流行りに乗ってインベーダーゲームを導入したオーナーは、これまで暴力団と関係の薄かったため、彼らの格好の標的となっていった。
これがユダヤの商売か
週刊誌は、スぺースインベーダーを開発したタイトーについても記事にしている。前編で紹介したように、同社の創業者ミハエル・コーガン氏はユダヤ系ウクライナ人であったため、「ユダヤ人の侵略商法」と揶揄する記事も見られた。
コーガン社長は「日本人より日本人的すぎるが、決して演歌調ではない」という。
日本人を知り抜いたユダヤ人が、非日本的発想で、日本人の"弱点”を侵略してきた。この戦略にはさしもの経済大国・日本も防衛し切れなかったようだ。
週刊ポスト1979年6月15日号
タイトーの社長が外国人だったとはいえ、スペースインベーダーを開発した西角氏をはじめとした社員は日本人であり、的外れな見方と言えなくもないが、週刊誌はこぞってヒットの秘密を分析していたのである。
週刊食堂1979年4月号掲載のタイトーの広告。ゲームの楽しさを前面に出しており、「ラクして儲かる」「一刻も早く購入を」と煽る他社のコピー製品の広告と比べマトモに見える。
軍国主義への回帰?時代の象徴?
これまでにない「侵略者という敵と戦う」というゲーム性も物議を醸した。「若者の軍事訓練である」「右傾化時代の軍事教練」といった記事も見受けられる。
有事立法、元号法制化を先陣とする右傾化の風潮と重ね合わせてみると、これは若者たちの軍事教練のようにも見えてくる。基本的には電子戦争の現代では、鉄砲かついで「前へススメ、右向け右」を強調するよりは、こちらのほうがはるかに実戦践的だ。
なにしろ、このゲームは、この種のものとしては初めての攻撃・防御両面を備えている。「専守防衛思想」から一歩踏み出している。
朝日ジャーナル1979年6月15日号
1979年の新入社員は「スペースインベーダー型」。インベーダーは時代の象徴として様々な場面で引き合いに出されることになる。
何を考えているかわからない宇宙人。揃いの紺のスーツを着て、どれも同じヘアー・スタイル、没個性、容易に区別がつかない。行動性向は、前へは進まず(積極性なし)、横へ横へとカニのように動く(趣味は実に広い)。しかも大学から大量にはき出される。
週刊現代1979年4月12日号
「自立」を叫ぶ女たちが大挙して押しよせる。これはもう、宇宙人の襲来に他ならない。
経済力があり、両親から離れて自立していて、都心のマンションに住み、車を持っている。結婚したいといわず、酒が飲め、海外旅行の経験があり、男のワイ談にも平気な顔でつき合い、自分でもエッチなことをいう。
週刊現代1979年4月12日号
幻のインベーダー税
インベーダーゲームのインカムに群がるのは民間企業だけではなかった。国会では、インベーダーゲームに娯楽施設利用税を課すことができないか検討されていたのだ。
娯楽施設利用税とはご存知、地方税法第七十五条第七号にマージャン屋やパチンコ屋など、課税場所を具体的に列記しているが、問題はその末尾に─「全各号に掲げる施設以外の娯楽施設で道府県の条例で定めるもの」と規定してあること。
当然インベーダーも、同列にしておかしくないというわけである。
経済展望1979年5月1日号
だが、このロジックには無理があった。ゲームセンターを「娯楽施設」として課税対象にすることは容易だったが、インベーダーゲームは喫茶店を旅館や食堂など様々な店舗に設置されている。インベーダーゲームが設置されているからといって、これらを「娯楽施設」とするのは相当に無理があり、業界団体からの抵抗も予想された。
他にも、インベーダーゲームを物品税の対象にするという案も存在したようだが、インベーダーゲームを課税対象にしようという試みは失敗に終わった。
インベーダーという「物語」
ここまで、様々なメディアがインベーダーブームを報じている様子を見てきたが、興味深い点がある。メディアがこのブームを「宇宙人の侵略」と報じているのだ。
これはあくまでゲームであり、インベーダーも粗いドットで描かれたキャラクターに過ぎない。だが、新聞から週刊誌までこのドットの塊を「侵略者である」と表現している。
ゲームにストーリーという概念を取り入れた代表的な作品として「ゼビウス」が挙げられることが多いが、スペースインベーダーも現実世界のブームとゲームキャラクターを重ね合わせることである種のストーリーを生み出していたのである。
ゲームをプレイしない人々も巻き込んで、ドットで描かれたオブジェクトを「キャラクター」として認知させた最初期のゲームと言えるのではないだろうか?
ブームの終息とゲーセン殲滅計画
インベーダーを次々と撃ち落とすエースパイロットが出現。警察や行政もインベーダー包囲網に本腰を入れる。侵略者の根城であるゲームセンターもろとも消し飛ばす究極の作戦が決行されようとしていた。
冷めていくブーム
スペースインベーダーの登場から1年が過ぎた1979年夏。ついにブームに陰りが出てくる。コピー品を生産していた業者が倒産し、ゲーム機を設置していた喫茶店もインカムが減少した。インベーダーゲームが飽きられただけでなく、プレイヤーが上達し100円で長時間プレイできるようになったこともインカム減少の原因だった。
週刊現代1979年8月2日号。1979年3月~5月頃の熱気が7月頃には急速に冷めてきたと書かれている。
「もうインベーダーは終わりだね。五、六月は一日二百人は入ったのに、この帳面を見て下さいよ。七月になって一日七十人から九十人がせいぜい。」
週刊現代1979年8月2日号
町角で学生風の長髪の男に声をかけたら、退屈そうにこういった。
「インベーダー?あんなものに今でも夢中になっているのは、よっぽど頭が悪いか、反射神経のにぶい奴じゃないの。オレなんか、やれば十万点くらい楽に出ちゃうし、スリルがなくなってやる気なくしたヨ」
週刊現代1979年8月2日号
亜流インベーダーを開発していた企業の中でも開発力に優れたメーカーは、ポスト・インベーダーを狙って次々と新たなビデオゲームを開発する。その中でも最も成功を収めたのは任天堂だろう。
経営危機を脱した任天堂は、亜流インベーダー「スペースフィーバー」に携わった宮本茂氏をディレクターとして新たなアーケードゲーム「ドンキーコング」を開発。大成功を収めた同社はアーケードゲーム事業から撤退し、家庭用ゲーム機ファミリーコンピュータに注力していくことになる。
ファミリーコンピュータの普及により、教育関係者の悩みはゲームセンターからファミコン対策に移っていくが、「子供がゲームセンターでムダ遣いするよりはマシ」という親も多かったという。
任天堂が開発した「ドンキーコング」。登場キャラのジャンプマン、ドンキーコング、レディは、後にマリオ、クランキーコング、ポリーンとして永く活躍していくことになる。
インベーダー包囲網
青少年の非行問題、暴力団の資金源問題など、インベーダーブームの負の側面により、ゲームセンターに対する世間の目は日増しに厳しくなっていった。全国の教育委員会では、次々とインベーダーゲームのプレイ自粛・禁止を打ち出した。
特に、小学四年生の女児がインベーダーやりたさにフェリーで300キロ離れた那覇市に家出した事件が起きた沖縄県平良市(現在の宮古島市)の教育委員会では事件の10日後に児童生徒のインベーダー全面禁止という強い規制を打ち出している。
内外教育1979年6月12日号。全国の教育委員会がインベーダー禁止令を検討し始めている。理由としては、金銭と時間の浪費・非行につながる可能性が高いことなどが挙げられている。
1979年の衆議院予算委員会分科会では、野口幸一議員から「インベーダーゲームを風俗営業等取締法(風営法)の対象にすべき」との意見も出ている。
野口先生によると、風俗営業等取締法はその第一条第七号において「まあじゃん屋、パチンコ屋、その他設備を設けて客に射幸心をそそるおそれのある遊技をさせる営業」と規定、これを風俗営業として取り締まりの対象にしているのだそうだ。
喫茶店はもちろん、現段階では風俗営業ではないが、カケ・インベーダーをやっている状態からは、その資格十分ではないかというのである。
経済展望1979年5月1日号
だが、当時の警察庁刑事局長の塩谷氏は風営法の適用には無理があると回答した。
結論から先にいうとこの答弁、由々しき問題ではあるものの、喫茶店を風俗営業とし、取締法の対象とするには、相当のムリがあるというものだった。
経済展望1979年5月1日号
だが、ゲームセンターと青少年の非行問題、改造ゲーム機による賭博問題が解消したわけではなく、ゲーム喫茶・ゲームセンターに対するイメージは悪化していった。
「パチンコと違ってインベーダーゲームには景品がつかないから、風俗営業法を適用できない。もちろん小さな子供が夜おそく盛り場をうろついていれば補導はするが、それ以上のことは今のところできないんです」(警視庁少年一課)
週刊明星1979年6月3日号
警察当局も態度を一転し、風営法の摘要に前向きになっていく。国会では、風営法の適用に対して積極的な発言が目立っている。これは改造ゲーム機による賭博問題についての警察庁刑事局保安部長の答弁である。
この遊技機を健全なものと不健全なものに分けるということがなかなか難しいということでございまして、いろいろなゲーム機がありますし、いろいろな名称で用いられておる。そのゲームの内容等でこれを分類するということがなかなかできないわけでございまして、これを認めますと、やはりそれを悪用して転用される危険性というものが大変高く
(中略)それを利用して賭博が行われているという例もかなりあるわけでございます。
第101回国会衆議院地方行政委員会議事録
これに対して、「麻雀やゴルフもギャンブルができてしまう可能性があるから規制対象になってしまうのでは?」との意見も出ているが、警察当局は以下のように答弁している。
ゴルフで手を握ったらばすぐ賭博になるかということになりますと、それはいろいろ問題はありますけれども、いずれにしましてもいろんな形でかけごとが行われるということはあり得ることだと思いますけれども、私どもがやはり問題にいたしますのは、それが営業として行われる、しかもそういうものの蓋然性が高いというところにやはり着目しなければならぬと思うのでございます。
第101回国会衆議院地方行政委員会議事録
実際に欧米でも同種の問題が起きている。ゲームセンターが青少年の犯罪助長や違法ギャンブルの温床になり、マフィアの資金源となる恐れがあるとの理由で未成年の入場禁止などの強い規制が講じられている地域が多い。
警察当局は、ゲームセンターに風営法を適用することでパチンコ店と同様に18歳未満入店禁止にしようと考えていた可能性がある。
風営法改正がもたらしたもの
1985年2月13日にゲームセンターは風営法第八号(現在の五号)の対象となった。これにより、未成年者の入店は22時まで(実際の運用は都道府県の条例により異なる)、営業時間は24時までとされ、条件を満たす施設に対しては例外規定も設けられた。
アミューズメント産業1986年3月号。新宿歌舞伎町で24時にシャッターを下ろすゲームセンターの様子。繁華街では深夜も需要があったため、営業時間規制の影響は大きかった。
ゲームセンターへの未成年者の立入を禁止するのではなく、時間制限にとどめるというパチンコ店等と比べ緩やかな規制に落ち着いた背景には様々な理由が考えられるが、ゲーム機がゲームセンター以外の場所─喫茶店やデパート・旅館等にも設置されており、一定の配慮に基づく規制を余儀なくされたものと思われる。
当時の世相からすると、ゲームセンターは無くなっても良い(むしろ無くなった方が健全)という見方をされていた施設である。強烈な規制をかけて非行と賭博の温床となり得るゲームセンターを潰してしまうこともできたはずである。
だが、インベーダーブームを通じて、ビデオゲーム筐体は日本中のあらゆる場所で稼働しており、強烈な規制をかけてしまうと飲食店をはじめとした様々な業種に影響を及ぼすことになってしまう。こうした業界団体からの陳情もあり、緩やかな規制に落ち着いたものと考えられる。
また、風営法により警察当局の管理下に置かれることになったことから、不健全な店舗の排除や、アーケードゲームに対する一定の理解(あくまで違法ではないという程度だが…)は得られたとも考えられる。業界的には風営法の適用により救われた部分もあるということだろう。
千葉県柏市のセブンパークアリオ柏に置かれた巨大オブジェ。タイトーステーションのオブジェはなぜかピーナッツベンダーになっている。その意味が、何となく分かった気がする…
ぼくらの宇宙戦争
こうして、宇宙からの侵略者との戦いは終わった。
勝利の代償は大きく、遅まきに筐体を購入した店舗は赤字廃業が相次ぎ、残った店舗も風営法の枷をはめられることとなった。ゲームセンターに対するイメージは暗く治安の悪い場所として世に知れ渡り、大人たちは子供をゲームセンターから遠ざけるためにファミリーコンピュータを買い与えた。
一方で、インベーダーブームの恩恵を受けたメーカーは、風営法適用下でも耐えうるインカムを叩き出すゲームを次々と開発。短時間でゲームオーバーになっても挑戦したくなるような魅力的な作品が次々と生み出され、日本のアーケードゲームは全盛期に向かって歩み始めた。
ゲームセンターでは、大手メーカー系列店を中心に明るく清潔な店舗運営を目指し、イメージ向上に努めていく。
黎明期の名作ビデオゲーム・体感ゲーム、そして一大ブームを巻き起こした格闘ゲーム・プリクラ・音楽ゲーム・カードゲーム、世界的IPに成長するドンキーコング・マリオ…
日本のゲーム業界発展の基礎であり、結果的にゲームセンターを救ったインベーダー。宇宙からの侵略者の遺伝子は、世代を経て日本人の血肉に深く埋め込まれているのかも知れない。
我々はインベーダーと共存する道を選んだのだ…
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