FURIMUKI style
1978

ぼくらの宇宙戦争(前編)
宇宙からの来訪者

2023年12月17日

 はるか昔、戦後の荒廃から立ち直った我が国は、宇宙からの侵略者によって再び蹂躙されることになった。

 当サイトでは、ビーマニシリーズを中心とした音ゲーの歴史ついて研究している。かつてビートマニアやDDRが巻き起こした音ゲーブームは、これまでアーケードゲームに触れてこなかった層をゲームセンターに呼び込み、ゲームセンターの雰囲気を一変させた。これは、アーケードゲームの歴史においてひとつのターニングポイントだった。

 音ゲーブーム当時の新聞記事などでは、プリクラや音楽ゲームのブームについて、「音楽ゲームがゲームセンターの暗いイメージを変えた」などと報じている。

 かつてのゲームセンターは、「店内が暗く入りにくかった」「不良のたまり場だった」などと表現されることが多い。今回は歴史を遡り、音ゲーが生まれる遥か以前のゲーセン黎明期、特にゲームセンターが全国に普及するきっかけとなった「スペースインベーダー」稼働前後を中心に、当時の社会の反応と、その後日本のゲームセンター業界が辿る数奇な運命について見ていきたいと思う。

ゲームセンターのなりたち

 日本のゲームセンターの原点は、デパート等の屋上に作られた遊園地で、戦前から既に存在していたといわれている。戦後、復興が進むに伴ってデパートの屋上遊園地だけでなく、ホテルや温泉旅館のゲームコーナー等が生まれていった。

古い温泉旅館にあるゲームコーナーみたいなやつ

 この時代は、まだビデオゲームは存在しておらず、エレメカや自動木馬が主であった

日本アミューズメント産業協会(JAIA)公式サイトより。1955年に横浜(関内駅)の松屋百貨店屋上に設置された自動木馬。お金を入れると木馬が動くので跨って揺れを楽しむというもの。制作したのは中村製作所(現在のバンダイナムコゲームズ)。

ウマのゲーム!後のファイナルハロンかー
1クレ5円なのが歴史を感じる

 このようなエレメカや木馬は、既存の商業施設の一角に設置されていた。現在のゲームセンターのように遊具だけを稼働させた店舗が登場するのはまだ先の話である。

戦後復興とジュークボックス

ウクライナから来た男

 タイトーの創業者、ミハエル・コーガン氏が初めて日本を訪れたのは1939年だった。

 ユダヤ系ウクライナ人であるコーガン氏は、ウクライナの港湾都市オデッサ(現在のオデーサ)出身。ロシア革命後の迫害を逃れて満州に移った際に、日本人らに保護されたことから親日家となった。そして、太平洋戦争終結後、日本で貿易会社「太東貿易」を起業するが、この企業が後のタイトーとなる

タイトーステーションでかつて使われていたメダルには創業者であるミハエル・コーガン氏の肖像がデザインされていた。

 太東貿易は、当初ウォッカやピーナッツベンダーの製造・販売を行っていたが、次第にジュークボックスやアミューズメント機器の製造・開発も手掛けるようになる。メインの販売先はバー・クラブ・喫茶店などの飲食店であった。

ピーナッツベンダー?
バーや喫茶店のテーブルとかにピーナッツの自販機が置かれていたらしい

千葉県柏市のセブンパークアリオ柏には、入居テナントにちなんだ巨大オブジェが置かれている。タイトーステーションのオブジェはなぜかピーナッツベンダーになっている。

タイトーの原点なのは分かったけど、ピーナッツベンダーはゲーセンとは関係ないのでは?
ピーナッツベンダーが無かったら、日本のゲーセンは絶滅してたかも知れないんでね

ジュークボックスブーム!ゲーム会社の誕生

 1952年に日本は進駐軍による占領統治下から独立したが、日本各地にはアメリカ軍の基地が残されることになった。アメリカ兵達は基地の周りのバーに通うようになり、その文化は次第に日本人にも浸透していった

十円玉を投入するとひとつまみのピーナッツが出てくる。小型の卓上自販機である。コーガンはもとよりナッツ類が好物で、よく食べていた。

ウォッカでつながったバーにピーナッツベンダーをセールスし、さらに喫茶店にも売り込んだ。これは委託販売形式で、定期的にベンダーから十円玉を回収し、設置店にマージンを払うという商法であった。後に太東貿易が急伸するアミューズメント・ゲーム商法の原型といえる。

遊びづくり四十年のあゆみ(タイトー社史)

 ピンボールやジュークボックス等の娯楽機器もアメリカ兵達により持ち込まれた文化だった。

 こうしてジュークボックスのブームが訪れる。十円玉を入れて好きな楽曲を選曲すると箱から曲が流れる…ジュークボックスは喫茶店・バー・お茶屋などの大人の社交場に設置されることが多かった

喫茶店とお茶屋って同じでは?
かずあそび…
かずあそび!

初めて見た日本人にとって、それは魔法の箱。十円玉を投入し、ボタンを押すだけで、あとは“箱”が選んだ曲を鳴らしてくれた。ジュークボックスの集客力は大したものであった

遊びづくり四十年のあゆみ(タイトー社史)

「遊びづくり四十年のあゆみ」より。ジュークボックスは後に日本独自の進化を遂げ、ボーカル抜きの音源を流して客が歌う「カラオケ」が生まれることになる。

ジュークボックスからボーカルを抜いて歌えるようにしたのがカラオケ。キー音を抜いて演奏できるようにしたのがビートマニアってこと?
ビートマニアの原型は、音が鳴るおもちゃとエレメカが元だから、ジュークボックスが起源ではないね

 ジュークボックスを作れば商売になる。しかし、当時の日本は敗戦国であるため、厳しい輸入規制が設けられており、新品のジュークボックスを輸入することは難しかった。

 そこで、米軍基地からの払下げ品や、スクラップ寸前の中古品を何台も購入して使えるパーツを抜き出し1台のジュークボックスを完成させるといった手法でジュークボックスを製造する企業が現れた。

 セガ・タイトー・コナミはこうしたジュークボックスの製造・販売・修理により頭角を現してきた企業で、次第にジュークボックスだけでなく様々な娯楽用機器を扱うようになっていく

レジャー施設の誕生

 1960年前後になると、タイトーやセガなどの業務用ゲームメーカーは直営店を出店するようになっていく。

 1960年にサービスゲームズ社(現在のセガ)太東貿易(現在のタイトー)が、直営店として「日比谷ガンコーナー」「上六ゲームコーナー」などを開店し、自社の製品を稼働させていた。

 デパートの屋上遊園地を発祥とする子供向けロケーションと、ピンボールなどが設置されていた飲食店等の大人向けロケーション。日本における黎明期のゲーム施設は、客層が異なる2つの環境で育ってきたが、ゲームセンターの登場により、大人も子供も遊べるロケーションが誕生していくことになった。

 東京都豊島区西池袋の「ロサ会館」1階のゲームセンターは、黎明期のゲームセンターとして有名な場所の一つである。

 「ロサ会館」は当時都内では珍しかった大型アミューズメント施設として1968年に開業した。しかし、思うようにテナントが集まらず、オープン当初でありながら1階部分に空室がある厳しい状態だった。

1階が空室のレジャー施設…入りにくそう…
元々ここは家族経営的な映画館だったらしくて、テナント経営のノウハウが無い状態でオープンしちゃったらしい

 このピンチを救ったのが、「太東貿易」のミハエル・コーガン社長だった。ミハエル・コーガン氏は1階の空室部分に自社のアミューズメント機器を設置することでビル全体集客を図れるのではないかと提案する。

当時,コーガンさんはゲームマシンの開発だけでなく,海外からスロットマシンやジュークボックスなどを輸入して,六本木や赤坂界隈の社交場に納めるような商売をやっていたと思います。

社名の太東貿易は『太い』に『東』と書きますが,これは極東のユダヤ人という意味で,ユダヤ人のコーガンさんが迫害を受け,ウクライナ,満州を経由して神戸に来たことに由来していたようです。

コーガンさんに,ロサ会館の1階にテナントが入らず,幽霊ビルみたいな状態になっているとを話すと『じゃあ,そこにゲームを入れてみよう』と

4Gamers.net ビデオゲームの語り部たち 第1部

「遊びづくり四十年のあゆみ」より、オープン翌年1969年の「池袋ロサ ゲームランド」の様子。手前にはクレーンゲームが、奥にはピンボールが置かれているようだ。

 こうしてピンボールやエレメカ等が設置され賑やかになったロサ会館には客が集まり、経営危機を脱することができたのであった。このような施設は「ゲームセンター」と呼ばれるようになる

このゲーセンは今でもタイトーステーションとして営業してるよ

ゲームセンターの誕生における歴史的な場所でもあるタイトーステーション池袋ロサ店。IIDXも設置されているため行脚も可能。

コンピューターの時代

 1970年代に入ると、業務用アミューズメント機器は更なる進化を遂げる。コンピューターを用いたゲームが業務用ゲームとして現れ始めたのだ。

 コンピューターゲームが初めて商業的に成功を収めたのは1972年11月にアメリカのアタリ社から発売された「PONG」であると言われている。アメリカで大ヒットした「PONG」の噂はほどなく日本にも伝わり、タイトーやセガなどのアミューズメント機器メーカーは、研究のために「PONG」を取り寄せていた

「PONG」はパドルと呼ばれる棒を操作してボールを打ち返す対戦ゲーム。当時無名だったアタリ社を世に知らしめた大ヒットゲーム。

 タイトーの貿易担当が手に入れたPONGの実機が日本に送られてくると、営業担当の社員達が集まってきた。しかし、「PONGは売れないだろうという」と一蹴されてしまう

早速、営業の人たちが見にきました。しばらくプレイしたり中を覗いたりしていましたが、彼らの言葉は一言、「これは売れないな……」でした……。

スペースインベーダーを創った男 西角友宏に聞く
アメリカでヒットしてるって実績もあるのに、営業担当の目は節穴かー?

 タイトー社内で「日本ではヒットしないだろう」と判断され、数日後に処分されることになったPONGだが、このゲームの可能性に魅せられた男がいた。西角友宏氏─のちにスペースインベーダーを開発することになる人物である。

 西角氏は当時タイトーの子会社に勤務していたが、タイトーの営業担当に「PONG」が売れないと判断した理由を問い詰める。すると、驚くべき答えが返ってきた。

私がそのわけを聞くと、「『スカイファイター』のような今までのメカゲームの中には、モーターがあって動いていたり、配線がぎっしり詰まっていたりして、いかにもコストがかかっているように見える。しかし、このゲームは一目見たところ中身がほとんど空だというのに、値段はこれまでのゲームと同じくらいだろう。これじゃあ、業者が納得しないよ」と、ちょっと訳のわからない返事をされました。

スペースインベーダーを創った男 西角友宏に聞く
ゲームの中身がスカスカ(物理)
筐体の中に鉛でも入れて重厚感を出せば売れるのかー?
営業担当の知識不足というよりも、客がゲーム基板の価値を理解してくれないだろうってことだろうね。コンピューターが身近に無い時代…

 ところが、事態は一転する。タイトーのライバル企業「セガ・エンターブライゼス」(現在のセガ)がPONGのロケテを行ったところ高インカムを叩き出したとの情報が入ったのである。

 コーガン氏は方針を一転し、アタリ社から大量の基板を輸入。自社製の筐体に入れ「エレポン」として販売することにした。

ビートマニアも太鼓の達人も、ロケテで社内の評価がひっくり返ってたなぁ…
だからロケテは大切なんだよ

そんな状況で、タイトーも急遽アタリの『ポン』の基板を大量に購入し、自社製の筐体に入れることにしました。ですから、外側だけが日本で作られたもので、中身は同じアタリ製のゲームなんです。

(中略)ほぼ同時に、セガとタイトーはそれぞれ自社版の『ポン』を商品化しました。『ポントロン』がセガのモデルの名前で、タイトーのモデルは『エレポン』でした。しかし、念のため繰り返しますが、名前は違っても中身は全く同じゲームなんですよ……。

スペースインベーダーを創った男 西角友宏に聞く
名前だけ変えて自社商品にするとか大丈夫なんですかね…
日本に販路が無かったので、アタリ社的にもオールオッケー!だったらしい

 この一件でビデオゲームの可能性を見出した西角氏は、開発部長にオリジナルゲームの開発を急ぐ必要があると訴えた。ライバル他社が「PONG」のヒットは一過性のものであると考えている今だからこそ、コンピューターという新たなテクノロジーを用いたゲームに力を入れて行くべきだと考えていたのである。

その日、私が開発部長に「これからはビデオゲームの時代になるような気がします。我々は先手を打ってオリジナルのゲームを開発するべきだと思うのですが」といったら、部長はにっこりと笑って「そうだな」と答えてくれて……。今もそれをよく覚えています。

スペースインベーダーを創った男 西角友宏に聞く

ブロック崩しブーム到来

テーブル筐体という発明

 西角氏は「PONG」の基板を完全に把握し、「サッカー」「バスケットボール」「スピードレース」などのオリジナルのビデオゲームを次々と開発していった。そんな中、アタリ社が開発した「ブレイクアウト」がヒットしているという情報を耳にする。

ブレイクアウトってどんなゲームだっけ?Distorted?
ブロック崩しゲームのことだよ

1976年にアタリから発売されたブロック崩しゲームの元祖「BREAK OUT」。「PONG」に次ぐヒット作品となった。「囚人が脱獄のために壁を壊していく」という設定がある。

 4年前に発売された「PONG」と似た目新しさの無いシンプルな画面。一見すると魅力のなさそうなゲームに見えるが、西角氏はヒットの理由を「当たり判定が大きく狙いやすいブロックが敷き詰められており、誰でもクリアできそうに見える」「ブロックの数が少なくなると当てにくくなり難度が上昇する」というゲームデザインにあると考えた。

最初から難しそうに見えるゲームにコインを入れる人は少ないからね
最後の壁はあまりにも無邪気に。この難度上昇の仕組みはインベーダーにも受け継がれてるよね

 1977年、タイトーは「ブレイクアウト」の基板を大量に仕入れ、テーブル型筐体に実装し「T.Tブロック」として喫茶店などに販売した(「T.T」はテーブルタイプの略)。

 テーブル型筐体はタイトーが開発した画期的な筐体で、テーブルと兼用できるためスペースの節約になること、店内に滞留するお客が飲み物だけでなくゲームプレイにもお金を払ってくれることなどから喫茶店を中心に大ヒットした。

 テーブル筐体というアイデアは、全国の喫茶店にピーナッツベンダーやジュークボックス等の販路があったタイトーだからこそ生み出された発明だと言えよう。

タイトーならではの発想!

タイトーは飲食店とのつながりを保つため、ジュークボックスに代わる商品を模索していた。そこで飲食店の必需品であるテーブルに目をつけ、ビデオゲームと合体させるアイデアが生まれたのである。当時、喫茶店は全国に十万店以上あった。一店に三~五台として三十~五十万台というとてつもない市場である。

(中略)タイトーの戦略は、一店二~三台を限度とし、息長く営業するつもりであった。しかし、インカムがよく、大きな副収入が得られるとわかり、何台も設置する店が増え、すべてのテーブルをこれにする店まで現れた

(中略)ついにはタイトーが危ぐしたとおり、喫茶店なのかゲームセンターなのかわからないような状態となり、雰囲気が悪いと敬遠する人も出てきた。

遊びづくり四十年のあゆみ(タイトー社史)
ゲームを爆音でやってる人が大勢いるカフェ…
雰囲気最悪ですねぇ

 テーブル筐体は、その形状からモニター部分に天井の照明が映り込みやすい欠点があり、その対策として照明を暗くする店舗が増えていった。こうして、薄暗い店内に大量のテーブル筐体を設置した喫茶店があちこちに出現していったのである。

もはや喫茶店ではない異様な空間…

「ブレイクアウトを越えろ」

 そんな喫茶店の状況はさておき、「T.Tブロック」はテーブル筐体と共に日本中の喫茶店に普及していった。すると、上層部から西角氏にある課題が告げられる。

 「西角、あの『ブレイクアウト』を超えるゲームを作れるか?」─「T.Tブロック」は「ブレイクアウト」をほぼ流用したものであった。西角氏はオリジナル作品でそれを上回るゲームを作ることを要求されたのであった。

『ブレイクアウト』よりもよいものが作れるか?

このシンプルな問いは、西角氏にとっては脅迫のようなものだった。しかし、氏はやる気に満ち、自分ならこの難しい挑戦に挑むことができると考えていた

スペースインベーダーを創った男 西角友宏に聞く
「壁越え」にアサインされてしまったのか…
いよいよインベーダーくるか!

そしてモンスターが生まれた

「マト当て」から「敵との戦い」へ…

 「ブレイクアウト」を超えるゲームを作るために、西角氏はまず「ブレイクアウト」の要素を別の何かに置き換えることを考える。「ラケットで反射させるボール」を「反射せずに直線軌道で飛ぶビーム」に置き換え、「動かないブロック」を「可動式の標的」に変更した

考えた末、『ブレイクアウト』のボールを打つラケットを何か別の形に変えるというアイデアが浮かんできました。そして、その新しい形のものからビームが出るようにしたらどうだ?と考えました。

(中略)ターゲットを可動式にして狙撃の難易度を上げ、プレイヤーたちに狙撃のうまさを試させるのだ。しかし、それでもなおプロトタイプはオリジナリティに欠けているように感じられた

遊園地やゲームセンターで見るような、シューティング・ガンゲームによく似ているように思われました。決まった時間内にターゲットを撃ち、できるだけ高いスコアを出すというタイプのものです。

スペースインベーダーを創った男 西角友宏に聞く

「スペースインベーダーを創った男 西角友宏に聞く」に掲載されている開発初期段階のイメージ図。ブロックを可動式のマトに置き換え、表示個数を調整していく様子がわかる。

スマブラの「ターゲットをこわせ!」みたいな

 そこで西角氏は「マトが攻撃してくる」「時間制限をタイマー式ではなく、敵の攻撃の苛烈さで表現する」というアイデアを思いつく。「マト」は「敵」になり、攻撃しながら自機に迫ってくる…エレメカでは表現できなかった「人間vsコンピューター」という構図を生み出した。

せっかくCPUを使っているのだから、それを活かして人工知能らしい機能を持たせ、狙い撃ちのゲームにはないインタラクティブ(双方向)性を持たせればよい

(中略)これは人間対コンピューター、人間対人工知能の戦いだ。

スペースインベーダーを創った男 西角友宏に聞く
勝つのは人か?マシーンか?
AIとの戦い!古くて新しいテーマ!

 プレイヤーを攻撃してくる「敵」のモチーフとして戦車・戦艦・飛行機・兵隊などのキャラクターを作るものの、ドット絵や移動速度などからそれらしく見えず、コーガン社長の考えで「人を撃つようなゲームは好まない」とのことからボツになった。

 敵を宇宙人にするというアイデアを思いつくきっかけになったのは当時アメリカで大ヒットしていたSF映画だった。

1977年のことですが、当時はちょうど世間で映画『スター・ウォーズ』が話題になっており、それがアメリカで大ヒットしているという話を聞いていました。アメリカで公開された翌年に日本でも公開されるということになり、多くの人が楽しみにしていました。

そんな状況から、これから宇宙ブームが始まるのではないかと思い、そこから自然に宇宙人を使うアイデアを思いつきました。兵隊を撃つのはタブーでも、宇宙人の撃退なら大丈夫だろうと考え、さっそく適当にモンスター風のキャラクターを描いて動かしてみました

すると非常に動きがスムーズでしたので、やっと「これだ!キャラクターはこれに決めた!」と思いました。

スペースインベーダーを創った男 西角友宏に聞く
このスターウォーズは第一作目、エピソード4のことだね
たしかにスペースインベーダーのロゴは、エピソード4のロゴとそっくりだしねぇ

 宇宙人のデザインは西角氏が子供の頃観た映画「宇宙戦争」(1953年のバイロン・ハスキン版)を基にタコ型宇宙人とした。そして、敵のバリエーションを増やすためにタコと同じ海の生き物ということでイカとカニが選ばれたのだった。

「火星人といえばタコ」ってイメージを植え付けたのが「宇宙戦争」。2005年にスピルバーグ版「宇宙戦争」が公開されてるよ
「大阪では何体か倒したらしい」というアレか…

「スペースインベーダーを創った男 西角友宏に聞く」には宇宙人(モンスター)の原案と思われるスケッチが掲載されている。カニを選んだのは横移動する挙動にマッチしていたからとのこと。

漆黒の「モンスター」襲来

 紆余曲折の末、「宇宙戦争ゲーム」というイメージが固まり、西角氏は世界観を作り上げていく。ゲームタイトルは「スペースモンスター」とすることが決まった。

スペースインベーダーじゃないの?

 こうして「スペースモンスター」の開発は進んでいく。大量の敵モンスターを動かそうとすると描画が遅くなるという問題があったのだが、敵が少なくなるにしたがって描画(=動き)が速くなることを利用して難度を上昇させるなど、様々なアイデアを盛り込んでいく。

 サウンド面で西角氏は敵モンスターの歩行音にこだわり「プレイヤーに不安を感じさせる低音で、映画『ジョーズ』のようなもの」という指示を出している。これは、敵が少なくなるにつれて歩行音のテンポが速くなることで表現されている。

映画「ジョーズ」でサメが近くに来るとBGMテンポが速くなる演出!
A級サメ映画を参考にするとは流石!

 更に、ゲームのイメージを増幅させる筐体イラストを中川和雄氏が担当月面をイメージしたクレーターと自機に迫るドス黒いモンスター。西角氏はこのゲームの舞台設定について当時24歳の中川氏に任せたのだという。

中川>プレイヤーは月にいるという設定です。詳しい設定は考えていませんが、宇宙から攻めてきた敵を地球側の防衛隊が月で迎え撃つといったシナリオです。

中川>西角さんに筐体デザインを依頼されたとき、どちらかというと大人向けの、恐怖を感じさせるイラストにしてほしいと頼まれました。それで侵略を目的に上空から降りてくるモンスターを思い浮かべたんです。

─太陽の光による逆光で、モンスターはほぼシルエットにしか見えない。荒々しい両腕は、今にも襲い掛かろうとしている。

スペースインベーダーを創った男 西角友宏に聞く

スペースインベーダーのアップライト筐体。正体不明のモンスターが地球の最終防衛ラインである月面に迫る─という構図。

このモンスターについてですが……このイラストが描かれたときのタイトルはまだ『スペースインベーダー』ではなかったんです。当時、この企画はまだ『スペースモンスター』の名で進められていたんです。

そのため中川氏はモンスターを強調したデザインにしたのだ。

スペースインベーダーを創った男 西角友宏に聞く

 この「スペースモンスター」は発表の直前にタイトルを変更することになってしまう。西角氏は「スペースモンスター」という名前に愛着を持っており、筐体イラストもモンスターというイメージで描かれていただけに、土壇場でのタイトル変更には納得ができなかったという。だがタイトル変更の命令を覆すことはできなかった

「モンスター」という単語がなくなるのが嫌だったというより、「インベーダー」という単語があまり好きではなかったんです。日本ではあまり聞きなれない単語でしたから。

スペースインベーダーを創った男 西角友宏に聞く

すでに馴染んでいたタイトルを変更するのに反対しました。しかし、上層部からはどうしても変更するようにとの命令が来ました。仕方がないのでプログラムの修正をするしかありませんでした。

スペースインベーダーを創った男 西角友宏に聞く
ビートマニアも発表直前にタイトルが変更になって、急遽ロゴの上にbeatmaniaって文字を重ねたんだよね?
1978年当時とビートマニアの1997年じゃ制作環境が全然違うからね。コピペもレイヤーも無いし、そもそも画像加工ソフトも存在しない…
ひっ!

すでに容量ギリギリになっているところにもう1文字多くするには1文字分プログラムを下にずらさなくてはなりません。時間がかかり、非常に不愉快な思いをしました。このせいで「インベーダー」という単語が嫌いになってしまい、この作品に対して全然愛着が持てなくなっていました

タイトルの変更は筐体の外観にも予期せぬ影響を与えたことは前述の通りだ。筐体に描かれたあの有名な「モンスター」を描きかえようにも、時すでに遅し、だった。

スペースインベーダーを創った男 西角友宏に聞く

筐体に描かれたモンスターは2020年にグッドスマイルカンパニーで「MONSTER」としてフィギュア化されている。当時の原案で書かれている「今にも襲い掛かろうとしている荒々しい両腕」は可動式。

全身真っ黒じゃん!太陽を背にして逆光で黒く見えてる設定じゃなかったのか!
ゲームタイトルは変更されたけど、MONSTERくんはモンスターのまま現代まで残っているようでなにより

 こうして「スペースモンスター」は「スペースインベーダー」と改名され、世に放たれることになった。

 インベーダーが最初に降り立ったのは日本の中枢部だった…

後編に続きます


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