FURIMUKI style
2001

コナミの牙城を崩せ!
「全盛期のIIDX」5th styleに挑んだ男

2023年1月22日

 2001年。二十一世紀という新たな時代が幕を開け、「IIDX FOR THE NEW CENTURY」のキャッチコピーと共にIIDX 5th styleが稼働する。業界誌のインカムランキングで歴代IIDX最高得点を叩き出した4th styleの流れを汲み黄金期を迎えたIIDX

 他社からも様々な音楽ゲームがリリースされるが、コナミの音楽ゲーム群は他を寄せ付けない圧倒的な勢いを誇っていた

 だが、その裏では「コナミ音ゲーの牙城を切り崩す」と息巻くメーカーが存在した。コナミと共にアーケードゲーム草創期から業界を牽引してきた老舗メーカー「ナムコ」である。入社二年目にしてナムコ音ゲーチームの中心人物担う男、中館賢氏。彼は、ナムコ版ビートマニアを作っていたかもしれない男だった。

 彼らが開発した音楽ゲーム「太鼓の達人」は、IIDX全盛期の5th styleとほぼ同時期に稼働する。太鼓の達人 V.S. 全盛期のビーマニシリーズ。さあ、勝利の栄冠を手にするのは?

もう、知ってるよね!

脱クラブミュージック!5th style

SP譜面初のLv12─Vが目覚めた

 コナミは2001年3月27日にIIDX 5th styleをリリースする。前作の4th styleで大成功を収めたIIDXは、まさに黄金期を迎えつつあった。そんな5th styleを代表する楽曲といえば「V」だろう。その人気ぶりは凄まじく、「ロケテストでは全員Vをやっていた」という証言もある。

L.E.D.氏:「beatmania IIDX 5th Style」のロケテストを見学しに行ったとき,会場のお客さんが全員「V」をやっていたのが衝撃的でしたね。「V」すげえ,dj TAKAすげえって。今でも鮮明に覚えていますよ。

4Gamer:当時のロケテストは自分も行きましたが,たしかに皆「V」をやっていましたね

4Gamer.net 最新作「beatmania IIDX 20 tricoro」のサウンドディレクター陣に聞く,IIDXシリーズの今昔。

 この楽曲は、TAKA氏が喫茶店で流れていた原曲を聴いて思いついたというエピソードがある。なお、2001年9月にアコースティックバンドのbondが「Viva!」という冬の第一楽章をモチーフにした楽曲をリリースしており、2002年にトヨタのCMにも採用されているが原曲の同じ部分をアレンジしているだけで特に関連は無い

「V」はですね、クラッシックのアレンジになりまして、ヴィヴァルディという作曲家の四季より冬の1楽章を題材としています。確か上野かどっかの、クラッシックがかかる喫茶店で耳にした時に、この曲は4つ打ちのビートに合うに違いないと思いついて、次の日に速攻で制作したものです。

基本的に原曲のアレンジを生かしていて、僕がやったことといえば、2分尺に合うように調整したくらいで、実際“dj TAKAはリズム隊を足しただけだろう”というご意見も頂いてますが、こういったアレンジは閃いた者勝ちみたいなところがあって、思いついたことが凄いんだと思ってもらえたら嬉しいです。

ちなみに、「V」とほぼ同時期にbondというグループが同じ曲を題材にした曲を発表していますが、僕の方が早かったと思っています。異国の彼方で同じ時期に同じことを考えてた人達がいるというのも、何とも不思議な感覚です。

beatnation Records公式コラム Back to Back vol.105

トヨタistのCM(TOYOTA公式Youtubeチャンネルより)。当時ネットで「トヨタのCMでVが流れてる」と騒がれた。

40分もある「四季」の中で、同じ部分を似たようなアレンジで同じ時期にリリース
そもそも海外ではIIDXが稼働してないのでパクリでもない。つまりこれは…

 このように、Vはクラシック(バロック音楽)をアレンジした楽曲で、当時としては異色なジャンルだった。クラブミュージックを扱うIIDXにおいて、クラシック音楽のような楽曲を収録するという試みについて、TAKA氏は次のように語っている。

従来の流れを組むトラックの他に、今まで意識していた「クラブ的」なスタンスから完全に開放されている音楽、ジャンルを多数収録してみました

古き良き音楽から最先端のものまで、心ゆくまでお楽しみください。

IIDX5th公式サイト NEW SONGS(dj TAKA)

 クラブミュージックの枠にとらわれず、幅広いジャンルの楽曲を扱うという考え方は、KCE JAPANの手がける家庭用作品に通じるものがある。事実、5th style稼働直後は「V」の圧倒的人気がインカムを牽引しており、この方向性は成功だったといえるだろう。

VのANOTHER譜面はSPでは史上初のLEVEL12。難易度面でも新たな世界に突入したバージョンだな

sync─インカムを底上げした隠し曲

 ところで、業界誌アミューズメントジャーナルのインカムランキングを見ると、5th styleのインカム推移は他のバージョンと比べて特徴的である。

 他のバージョンは稼働直後に最高のインカムを出し、徐々にインカムが下がっていく傾向にある。この時代は筐体がインターネットに接続されておらず、現在のようにバージョンの途中で楽曲を追加するようなアップデートを行うことができなかった。そのため、デフォルト曲と条件隠し曲でインカムを維持していく必要があり、徐々にインカムが落ちていくのはやむを得ず、半年程度の短い期間で新バージョンをリリースしていく必要があった。

 そのような状況下、5th styleは大きなインカムの落ち込みが無いどころか、稼働3か月目に最高のインカムを叩き出している

アミューズメントジャーナルのインカムランキング(店舗貢献度)をグラフ化したもの。5th styleは稼働期間を通じてインカムが安定しており、稼働から3ヶ月目が最も高いインカムを記録している。

グラフだと、3rdや7thはバージョンの切り替わった直後の月が極端に低いけど、新旧バージョンが別作品として集計されてるのが原因らしい

 「V」が注目されがちな5th styleだが、実はタイムリリース的な要素が仕込まれており、稼働後一定期間経過後に公開されたオペレーターコマンドにより、隠し曲が出現するようになっていた。

 このタイムリリースで出現した楽曲の一つが「sync」。dj TAKA氏とTaQ氏の合作だが、当時はコラボ曲というものが無かった上に、IIDXで人気を二分する両氏の合作ということで非常に盛り上がった。

 このように、稼働途中でインパクトのある要素を解禁し、インカムの底上げを図るという手法をオフライン時代に成功させたのも5th styleの特徴といえる。

OutPhaseという名義を使用しているが、隠すことなく合作であることを明らかにしている。6th以降のOutPhase名義では(TaQ/dj TAKA)という表記は入っていない。

コナミとナムコ、二つのDJシミュレーション

 音ゲーの覇権を握っていたコナミに強力な挑戦者が現れた。ナムコの太鼓の達人である。

 製作スタッフの中心人物である中館賢氏は、1998年春にナムコに入社したばかりの若手社員だった。

1997年春─ナムコのDJシミュレーションを作ろうとした男

 太鼓の達人のルーツは1997年春までさかのぼる。大石益也氏は新卒採用の選考を行っていた。応募書類には採用希望者が考えたゲームの企画が書かれていたが、目新しいものは無かった。

膨大に積み上げられた何千通もの書類には、彼らが考えたゲームの企画が書かれていた。派手な格闘ゲームが多かったが、そのほとんどは、誰でも考えつくような凡庸なものばかり

DIME 2003年6月19日号
採用担当だった大石益也氏は、「オーダイン」や「ソウルエッジ」を手掛けた人だよ

 大量の企画書の中で大石氏が注目したのが、中館賢氏の応募書類だった。企画書には「DJのシミュレーションを作りたい」と書かれていた。当時、大石氏は音楽ゲームを制作しようと考えていたようで、音楽に詳しい人材を欲しがっていたのだ。

 「その男」は、土砂降りの雨の日にTシャツ姿で現れた

と、突然、大石の手が止まった。(ずいぶんと線の細い、薄い企画を考える奴がいるもんだな)

それは、DJのシミュレーションゲームだった。その学生の履歴書には、音楽への造詣の深さが窺える文面が並んでいた。当時、音楽ゲームを立ち上げていた大石は、音楽の知識を持ったブレーンを探していた(ちょっと面接してみようか…)。

どしゃぶりの雨の日にやってきたその学生は、企画書同様、線の細い青年だった。しかも、全員リクルートスーツ姿の中にあって、Tシャツ。だが、質問には的確に答える。(これからのナムコには、こういう奴が必要になるかもな…

DIME 2003年6月19日号
1997年春といえば、コナミではビートマニアの社内企画が通る直前くらいの時期だったわけで…
つまり、ほぼ同時期にナムコも音楽ゲームを検討していて、DJシミュレーションを企画した人材を採用していたということ?
これはつまり…

電撃王1999年6月号の水木氏の発言によれば、ビートマニアの企画(当初はDJ BEATSという名称だった)にGOサインが出たのは1997年4月。大石氏が音楽ゲームを開発しようと考えていた時期と一致する。

 コナミとナムコで同時期に音楽ゲームが企画されており、両社ともDJシミュレーションというアイデアを持つ人間がいた。驚くべきことだが、これは決して偶然ではない。

 これまでの記事でも述べてきたように、ビートマニアという企画が生まれてヒットに繋がった背景には、当時の若者の間でクラブという文化と、その主役であるDJという職業へのあこがれがあった(産経新聞1998年10月25日朝刊の記事によると、男子中高生の将来なりたい職業第一位はクラブDJだった)。

 また、ゲーム業界では1996年12月にPS1用ソフト「パラッパラッパー」が大ヒットした直後の時期でもあり、音楽ゲームというジャンルに注目するゲーム開発者も多かったであろう。

 「パラッパラッパー」はヒップホップをモチーフにした音楽ゲームであり、そこからDJゲームという発想に至るのはごく自然な流れである。コナミとナムコ、両社が水面下で進めていた音楽ゲームのプロジェクトだが、開発スピードはコナミの方が上回っていた。結局、1997年9月のAMショー'97でビートマニアが発表され、アーケードゲームにおける音楽ゲームの先駆者はコナミになったのである。

ビートマニアの開発が遅れていたら、ナムコからDJシミュレーションが出てたかもしれないのかー!
うーん…そう単純な話でもないみたいだね。そもそもナムコは音ゲーの企画に消極的だったみたいだし

 なぜコナミがナムコに先駆けて音楽ゲームを具現化できたのか?それは、両社の社内事情の違いがあった。

 当時のナムコのアーケードゲームは、対戦格闘ゲーム「鉄拳シリーズ」や「ソウルシリーズ」が人気を博していた。最先端の技術を駆使したマニア向けのゲームに力を入れていたため、音楽ゲームの企画を出しづらい雰囲気があったという。

 これに対して、当時のコナミはアーケードゲームのヒット作に恵まれていなかったため、現状を打破できるような斬新なアイデアが歓迎されたのである。また、上月社長が組織改革を行い、スピーディーな意思決定ができる体制になっていたことは以前の記事で述べた通りである。

 コナミは当時のアーケードゲーム業界で劣勢だったがゆえに、他社に先んじて音楽ゲームを開発することができたのだろう。

水木氏のこれまでにない発想の企画が実現した理由の1つとして、コナミはここ数年、業務用ゲームではこれといったヒット商品がなかったという事情もあっただろう。

業務用ゲームでこれまでにない斬新な新製品が求められていたのだ。

日経ビジネス 1999年2月15日号
やっぱり「ドラグーンマイトが大ヒットしてたらビートマニアの企画は通らなかった説」は正しかったかー!

1999年夏─音楽ゲームが手薄なナムコ

 時は流れ1999年夏、コナミのDDRが社会現象になり音楽ゲームの市場は急拡大していた。しかし、ナムコは音楽ゲームのヒット作を出せずにいたのである。大石氏はナムコでも音楽ゲームに力を入れるべきだと考えていたが、依然としてマニア向けのゲームが好調だった当時のナムコでは、大石氏の考えに同調する者は少なかった

その年(1999年)の夏、大石は頭を悩ませていた。格闘ゲームを中心にアーケードゲーム業界のトップグループにいたナムコだが、当時隆盛となりつつあった音楽ゲームは手薄だった

(中略)だが、大石の周囲には逆風が吹いていた。高度なゲーム性を兼ね備えたマニア向けのゲームを次々に発表することで盛り上げていく……そんな雰囲気が社内を覆っていたのである。「音楽ゲームを作りたい」などとは、声を大にして言える状況ではなかった

DIME 2003年6月19日号

アーケード版ソウルエッジ。後にソウルキャリバー(ソウルシリーズ)に繋がる3D武器対戦格闘ゲーム。なお、フロムソフトウェアのソウルシリーズとは無関係。

これが太鼓の達人プロトタイプだ!

1999年冬─開発チーム結成!テーマは「和太鼓」

 1999年冬、大石氏は音楽ゲームを作るための模索を続けていた。社内で音楽ゲームの必要性を訴え、少しづつ賛同する仲間を集めていく。その中には1年半前に大石氏が採用した中舘氏がいたのである。

大石はあきらめなかった。徐々にではあるが年齢も性別も超えて、真剣に音楽ゲームの必要性を語り合える仲間を集め、製作チームが誕生した。プログラマー、デザイナー、サウンド、音楽ゲーム製作経験者……みなベテランたちだったが、大石はそこに「あの男」を参加させることにした

「あの男」とは、入社時の企画書に「DJのシミュレーションが作りたい」と書いた、あの中舘である。

DIME 2003年6月19日号
ナムコのビートマニアを作っていたかもしれない男!

 製作チームが結成されて「和太鼓をモチーフにしたゲーム」という方向性が決まるのに、さほど時間はかからなかった。当時の音楽ゲームは既に高難度化・コアユーザー化が進んでいたが、和太鼓をモチーフにすることでライトユーザーでも気軽に楽しめる音楽ゲームを作れるのではないか?というのが彼らの狙いだった。

製作チームを組んでまもなくのことだった。プログラマーの望月龍彦は、ふと「和太鼓をテーマにしたら面白いんじゃないか?」と思いついた。とにかく見た目が面白い。アミューズメント施設のなかで和太鼓をたたいている姿を想像するだけでも笑えるような気がしてくる。

他にもいろいろな打楽器を考えてみたのだが、これ以上インパクトを持った楽器は見つからなかった。みな、賛成だった

DIME 2003年6月19日号
「太鼓がゲームセンターにドーンって置いてあったら面白くないですか!?」ってやつ

メインターゲットは、女子高生とかおじさん、おばさんなど、普段あまりゲームをしない人たちにする。これまで人気のある音楽ゲームといえば、上級者向け、ゲームマニア層向けのものがほとんどだったが、普段あまりゲームをしない人たちでも、気軽に楽しめるように、あくまでわかりやすく、シンプルでそしてポップに。今までの音楽ゲームとは全然違うものを目指す。

DIME 2003年6月19日号
ビートマニアが当初狙っていたけど、徐々に取り込めなくなってきていた層だなぁ

 2000年春、ついに第1試作段階の太鼓型コントローラーが完成する。開発当初は1人プレイ専用筐体で、多人数で遊ぶために筐体を連結できるようにする計画だったようだ。また、太鼓は縦に置かれており「伏せ打ち」でプレイするようになっていた(製品版は「斜め打ち」で遊ぶように変更された)。

 バンダイナムコ公式サイトFunFareには試作機のイラストなど貴重な史料と開発秘話が掲載されている。当初は画面右端からカラフルなノーツが流れてきて、画面左端の人物が太鼓を叩くという画面構成になっていたようだ。

バンダイナムコ公式サイトFunFareに掲載されている太鼓の達人試作機のイラスト。「和太鼓」という仮タイトルになっており、小さいながら画面のイメージも確認できる。

パカパカパッションを横にしたようなレーンだなぁ
魂ゲージがロウソクになってる。なんか源平討魔伝みたいでホラーっぽい

マスコットキャラは人間だった

 ところで、太鼓の達人のマスコットキャラは、開発当初は「どんちゃん」(和田どん)ではなかったというエピソードをご存知の方は多いと思う。

 このエピソードはバンダイナムコ公式サイトFunFare内の「『太鼓の達人』祝20周年!熟練の開発スタッフが振り返る制作の舞台裏【後編】」で語られており、同サイトの別の記事では開発時の資料から「ふんどしを締めた熱い兄ちゃんをメインキャラクターにしようと考えていました(笑)」と書かれている。

バンダイナムコ公式サイトFunFareに掲載されている開発当初のメインキャラ。魂ゲージも兼ねており、ミスするとタライやパイが落ちてきたり矢が刺さるなどの演出も考案されていたようだ。

 上記の資料にはプレイ中の画面も小さく掲載されているが、先ほどの開発中資料と異なり譜面が縦になっている。譜面に関する説明文もあるが、文字が潰れており完全には判読できない。

譜面

入力指示バーが、画面の上端から下端へ移動します。譜面の表示は小節ごと切り換えます。中央のラインに現在演奏中の譜面を表示し、その■■に次の小節の予告を■■■と■■■に分けて表示します。

※筆者注:上記画像の説明文の判読を試みたもの。判読不能な箇所は■にしている

公式サイトFunFare バンダイナムコ知新 「第3回 太鼓の達人誕生秘話 現在に至るまで 前編」
この説明文と画面の感じだと、判定ラインが下方向に動いて、小節ごとに譜面が切り替わる…パカパカパッションでしょこれ!
パカパカパッションは1998年稼働だから、参考にした可能性はあるな

 画面構成については別の資料も存在する。ナムコの特許出願資料に描かれている画面構成は、これまでに挙げたものとは大きく異なっており、譜面の表示方法についてはかなりの試行錯誤を重ねた跡がうかがえる。

特許情報プラットフォームより。この資料では魂ゲージが独立して存在している。資料の説明によると、ノーツは左右の濃い色のレーンをL字に移動してきて、44aに到達したら太鼓左半分を、46aに到達したら太鼓右半分を叩くというルールのようだ。

 このように、「開発当初の太鼓の達人はふんどしの男性がメインキャラだった」というエピソードは、公式サイトや特許出願資料で確認することができ、そこそこ有名な話ではある。しかし、公式サイトで紹介されている以外にも全く異なる試作バージョンが存在していたことをご存知だろうか?

 公式サイトに気になる一文がある。

振り返ってみると、開発当初の試作段階では、現在の『太鼓の達人』とは異なる点も多かったです。

例えば、譜面は現在のように「右から左に」ではなく「中央に向かって左右から」流れてきました

公式サイトFunFare 『太鼓の達人』祝20周年!熟練の開発スタッフが振り返る制作の舞台裏【後編】
譜面が左右から流れて来る?さっきのL字に流れてくるバージョンのことじゃないの?
そう思われていたんだけど、新たな史料を発見してしまったのだ…

DIME 2003年6月19日号に掲載されている「太鼓の達人」開発当初の画面写真。ノーツが左右から中央に流れているように見える。画面中央の女の子がメインキャラだった。

バイトヘル2000の「悦びのハンドベル」方式!

 この女の子がマスコットキャラになっているバージョン、よく見ると太鼓の置き方が「平置き」ではなく、製品版と同じ「斜め置き」になっているように見える。しかし、このバージョンだけ魂ゲージの部分が「優劣ゲージ」になっており、開発最初期のものなのか、ふんどし男より新しいバージョンなのかはハッキリしていない。

さっきのL字譜面もだけど、開発初期は左右どちらを叩くかキッチリ指定されてたのか
メインキャラも、ふんどし兄貴だけじゃなくて女の子のバージョンもあったってのは初耳だね

メーンキャラは太鼓。実は、開発当初は人間の女のコのキャラクターだった。だが、ロケテストの際、別に作ったミニゲームのナビゲーター役だったこの太鼓のキャラの方が圧倒的に人気があったため、急遽主役に抜擢された。

DIME 2003年6月19日号

太鼓の達人攻略Wikiに記録されているAMショー2000版太鼓の達人の説明パネルの写真。「あそぶ!モード」として5種類のミニゲームが用意されていたようだが製品版では廃止された。

 「どんちゃん」「かっちゃん」は元々ミニゲームのキャラクターとしてデザインされてたようだが、アーケード版の製品版ではミニゲームは廃止された(代わりに家庭用で一部実装された)。ロケテストでの反響が無ければ、「どんちゃん」「かっちゃん」はミニゲームと共に消滅してしまったかもしれないのだ。

 当時アートディレクターを務めていた笹岡武仁氏は以下のように語っている。

笹岡氏:現在は看板キャラクターになっている「どんちゃん」も、初めはゲーム内の打点を表す記号でしかなかったんです。そこにカジュアルなユーザーさんが難しいゲームと感じてしまわないように音符に顔と表情をつけてかわいくしていきました

笹岡氏:そこからさらに手足をつけ、このゲームに愛着を持ってもらえるよう「どんちゃん」というマスコットキャラクターを作りあげました

公式サイトFunFare 『太鼓の達人』祝20周年!熟練の開発スタッフが振り返る制作の舞台裏【後編】
ある朝、太鼓に手足が生えちゃったのかー

 なお、公式設定では「どんちゃん」たちの生年月日は2000年3月3日となっている。これは太鼓の達人の試作1号機を製作している時期と一致する。ミニゲーム用のキャラとして誕生したのがこの日だったのだろうか?

度重なるロケテ。そしてAMショーへ

「申し訳ないけど、これは売れないよ」

 太鼓の達人の開発も進み。上層部へのプレゼンでも好感触を得ていた製作スタッフだが、販売サイドからの反応は冷ややかだった。当時のナムコは「コナミの音ゲーの牙城を切り崩す」という意気込みで、ギタータイプの音楽ゲームを4機種稼働させたが、いずれも売上が伸びず、社内には「うちに音ゲーは無理だ」という空気が広がっていたという。

このギター4機種は「ギタージャム、クエスト フォー フェイム、ウンジャマ・ラミー NOW!!、ミリオンヒッツ」のことだよ

 上記の話はバンダイナムコ公式サイトでも書かれており、広く知られているエピソードである。公式サイトでは比較的マイルドな表現をされているが、今回発掘されたDIME2003年6月19日号では、製作スタッフと販売サイドとの生々しいやり取りが書かれている

「大石さん、申し訳ないけど、これは売れないよ」

大石が、セールスの担当者から、すべてをひっくりかえすようなこの言葉を聞かされたのは、社長が楽しそうに太鼓をたたいていたわずか数日後のことだった。

DIME 2003年6月19日号

過去にナムコで出した音楽ゲームは、どれもよい営業実績を残していなかった。「ナムコから出す音楽ゲームは市場からあまり信頼されていない。だから、今度も売れないだろう」というのだ。

セールスサイドがなかなか首を縦に振らなかったのには、もうひとつ理由があった。それは、このゲームが「和風」である、ということ。

音楽ゲームが隆盛を極めている時代ではあるが、どのゲームもビートが利いて、クールでかっこいいものばかり。そのなかに、「ドンドンドンッ、カラカッカ、ドドンガドンッ」とほのぼのした和風の音が出る製品を投入して、はたして市場に受け入れられるのか?

DIME 2003年6月19日号
そういえば「おといろは」も"和"がテーマだった…

 そこで、製作スタッフはロケテストを実施して判断してもらおうとするが、販売サイドからは厳しい返答が返ってくる。

「開発チームがやりたいのなら、そちらの責任でやっていただきたい」

つまりは、自分たちで決着をつけろということだ。

DIME 2003年6月19日号
試しにゲームセンターに置いてみるメカ~
「やりたきゃ勝手にロケテすれば?」って感じ。これはあまりに生々しすぎるやり取り…

 2000年9月、ついに太鼓の達人のロケテストが行われた。このロケテは大成功を収める。太鼓の達人は、初日から大石氏らが想定していた予想の約2倍の売上を叩き出したのだ。

 だが、販売サイドはまたも厳しい反応をとる。

「大石さん、すごいですね。でも今回ロケテストを行った店舗は客の入りのいい店舗です。念のため、もう一度、今度はここのショッピングセンター内のゲームコーナーでロケテストをお願いします

セールスサイドはまだ信用してくれない。ところが、その店舗でもまた同様の驚異的売り上げを記録した

ついに会社は製品化を認めた

DIME 2003年6月19日号
最も太鼓が得意とする「ショッピングセンターのゲームコーナー」というフィールドで勝負させてしまう営業スタッフくん…

AMショー2000に参考出展。オペレーターからの評判は?

 一方で、太鼓の達人は2000年9月21日~23日に開催されたAMショー2000に参考出展された。当時セールスサイドを担当していた市川秀久氏によれば、太鼓の達人はゲームセンターのオペレーターからも高く評価されていたという。

市川氏:当時、ショー(展示会)に出したときの感想を僕がまとめていたんですが、「高齢のオペレーターから評判が高かった」という意見がありました。その時点で、すでに客層の広いゲームとなる片鱗を見せていたという(笑)。

公式サイトFunFare バンダイナムコ知新 「第3回 太鼓の達人誕生秘話 現在に至るまで 前編」

 ゲームセンターを経営するオペレーターの多くは、プレイヤーより遥かに年上である。音楽ゲームがヒットしているとはいえ、その背景にあるDJやクラブミュージックといった若者文化を理解できるオペレーターは少なかった

 事実、1997年末にビートマニアがヒットした際も、「なぜこのゲームがヒットしたのか理解できない」という声があった

「なぜこのゲーム機がヒットしたのか理解できない」ととまどう若手営業マンがいますが、50の坂をとっくに過ぎたウォッチャーとしては全く同感です。第一、マシンの前に立ってもディスクをどうすればよいのか、ボタンをどう押すのかサッパリ

ヒットの背景には、バブル崩壊後の93年頃から流行り始めたクラブがあります。銀座のクラブではない。若者が夜、飲んだり踊ったりして遊ぶクラブです。80年代に流行ったディスコより安く、また、踊りよりも飲んだりおしゃべりを楽しむ雰囲気があります。

(中略)当今のクラブなど知らない世代にはとても開発など思いもつかないし、ゲームセンターに置くにしてもレイアウトや雰囲気の工夫にそれなりの柔軟さが必要のようです。

(中略)対戦ゲームのブームまでは、年配の管理職・経営者であっても、たとえプレイはせずともゲームの魅力、熱中の秘密は理解できました。しかし『ビートマニア』以降、世代間の断絶は想像力を越えて大きいようです。

コインジャーナル1999年1月号

 その点、太鼓の達人は扱うテーマが和太鼓であるという性質上、年配のオペレーターでも面白さが理解できるという強みがあった。当時では珍しく、国内で知名度の高い版権曲を数多く収録したことも幸いした。筐体を導入するかの判断をする層に強くアピールできたことで、太鼓の達人は音楽ゲームとしては後発だったにもかかわらず、幅広いロケーションへ普及していくことになる。

ビートマニアやDDRは何をしてるかよく分からないゲームだけど、太鼓なら老若男女誰でもわかるという強さ
子供中心の施設だと、ビートマニアがヒットしていても「ここに置くようなゲームじゃない」ってなるけど、太鼓にはその障壁が存在しない

ゲームメディアはどう評価したのか?

 では、AMショー2000でお披露目された太鼓の達人をゲームメディアはどのように扱っていたのだろうか?

 多くのゲームメディアは、各メーカーが出展する音ゲーのうちの一つといった程度の取り上げ方であった。AMショー2000では、他社からも様々な楽器をモチーフにした音楽ゲームが出展されていたのである。

アルカディア2000年12月号のAMショー音ゲー特集。各社から多彩な音ゲーが出展されていることが分かる。太鼓の達人の下に掲載されているNANTA2000は韓国の料理パフォーマンスをテーマにした音ゲー。

NANTA2000?台所用品をチャカポコ…韓国の人気パフォーマンス?
NANTA2000は千葉県の市川妙典サティ(現在のイオン市川妙典店)でロケテが行われていたらしいけど、正式稼働はしてないらしい…

マイコンBASICマガジン2000年11月号にはNANTA2000をプレイしている貴重な画像が掲載されている。モニター側から順にフライパン2個・まな板1枚・ヤカン1個が配置されており、おたま2本で叩いて演奏するという操作形態のようだ。制作はSOLUTION、販売は株式会社マイカルクリエイト。

コック姿で音ゲー!あれっ?これって…

 ゲームメディアの記事を見ると、太鼓の達人はどちらかというとイロモノ系として認知されていたようで、「ストレス解消マシン」「一発ネタ」などと紹介されている。

アルカディア2000年12月号の太鼓の達人紹介記事。完成度は50%とされているが、画面構成は製品版とほぼ同じように見える。マスコットも「どんちゃん」になっていることが確認できる。

ストレス解消マシン!パンチングマシン扱いされてるじゃん

マイコンBASICマガジン2000年11月号のAMショー特集。「加熱する音ゲーブームが生み出した一発ギャグ」といった扱いをしている。

音ゲー界の絶対王者、太鼓の達人をバカゲー扱い!NANTA2000の方が一発ギャグでしょ!
ビートマニアがまだ注目されてなかった時期にいち早く注目したベーマガ編集部も、太鼓の達人の可能性は見抜けなかったのだ…

アルカディア2000年12月号のAMショー2000人気ランキングでは、太鼓の達人は15位。同誌の読者層であるコアユーザーからの評価はさほど高くなかったが、それ以外の顧客層から支持を得ることとなる。

 ロケテストとAMショー2000を通じて、ユーザー・オペレーター双方から一定の評価を得た太鼓の達人だが、社内ではなおも不安視する声があったため、初回生産台数は160台と極めて慎重な姿勢をとる。

市川氏:初期ロットは販売で160台しか発注しなかったんです。相当弱気(笑)。だから販売サイドからすると、作ったこと自体がチャレンジングでしたね。

バンダイナムコ広報:この時代、こういった中型筺体はだいたい800~1,000台は作って販売していました。ですから、本当にすごく弱気だったということです(笑)。

公式サイトFunFare バンダイナムコ知新 「第3回 太鼓の達人誕生秘話 現在に至るまで 前編」
ビートマニアも当初は慎重な姿勢だったから1st MIXはレアなんだよね

 社内の不安の声をよそに、稼働直後から大ヒットした太鼓の達人はすぐさま増台され、シリーズ化が決定。DIME2003年6月19日号の記事によれば、総開発費はナムコの人気タイトルの3分の1程度だったようで、収益に大きく貢献したことは想像に難くない。

01年2月、『太鼓の達人』と名付けられ、全国のアミューズメント施設に登場するや、たちまち大人気ゲームとなった。大石のもとには、セールス担当者から連絡が入った

「ごめんなさい。これからはたくさん売っていきます」

DIME 2003年6月19日号

太鼓 vs IIDX

 こうして、太鼓の達人とIIDX 5th styleはほぼ同時期に稼働した

 かつてナムコでDJシミュレーションを作ろうとした男が数年間の紆余曲折を経て生み出した和太鼓ゲームは、黄金期のIIDXを駆逐しコナミ音ゲーの牙城を崩すことができるのか?

太鼓は時代遅れ。人気になるのはいつも新しいものだ!
古いもの、伝統の良さは新しい場所でも輝く…うおおお!!

 ─太鼓の達人は、コナミ音ゲーの牙城を崩すことはなかった。

 子供や女性などのライトユーザーを中心に幅広い層を取り込んだ太鼓の達人は、子供中心のロケーションなど、これまでコナミ音ゲーがカバーできなかった領域にまで音ゲーを浸透させた。太鼓の達人とコナミ音ゲーは共存共栄することができたのである。

市川氏:コナミさんの音ゲーファンとは違った層がたくさんプレイしてくれたので、これは新しいカテゴリーができつつあるなと思いましたね。普段ゲームをしないような一般の方々がプレイしてくれていた。そういった客層の違いと力強さみたいなものは、最初から感じていました。

公式サイトFunFare バンダイナムコ知新 「第3回 太鼓の達人誕生秘話 現在に至るまで 前編」

 かつてビートマニアが掲げていた「ライトユーザーが気軽に楽しめるゲーム」。しかし、実際はコアユーザーに人気が出たため、次第に先鋭化を余儀なくされた

 太鼓の達人は、ビートマニアが当初狙っていた顧客層に対して改めてアプローチを行った結果、親子連れや高齢者など、当初想定していた以上に幅広い層を獲得。現在に至るまでその路線を維持し続けることができている唯一無二の音楽ゲームとなっていく。

 ナムコのビートマニアを夢見た男の作った音楽ゲームは、コナミのビートマニアが果たせなかった夢を成し遂げたのである。太鼓の達人スマートフォンアプリのプロデューサー川嶋康師は今後の展望を次のように語っている。

川嶋氏:まだ構想段階ですが、『太鼓の達人』は音楽のメディアになれるのではと思っています。従来の音楽を知る手段はラジオやテレビ、楽曲配信のサブスクリプションなどを通して行なわれていました。『太鼓の達人』ならば遊びながら音楽に繰り返し触れることができます

川嶋氏:スマートフォンアプリの太鼓の達人プラスであればダウンロードは無料でできるので、幅広くアプローチができて、遊びの中で音楽に触れることができる。将来的に新曲プロモーションの手法として、太鼓の達人が選ばれる未来がきたら面白いなと思っています。

公式サイトFunFare 『太鼓の達人』祝20周年!現プロデューサー陣が語るシリーズの未来【前編】
これ、かつてTogoシェフが言ってたアーティスト特化型ビーマニ構想じゃん!
太鼓の達人はビートマニアが果たせなかった夢に挑戦し続けている…

 さて、「太鼓の達人とIIDX 5th styleはそれぞれ別の客層を捉えた」というのが今回の結論なのだが、(結局『太鼓 vs IIDX』はお茶を濁して終わるのか?)とお思いの方もおられるだろう。

 そこで最後に、稼働直後の太鼓の達人とIIDXのインカム対比をしておきたいと思う。業界誌アミューズメントジャーナルのインカムランキングにおける両機種の設置店貢献度ポイントを調べてみた。

太鼓の達人稼働開始から7か月間のアミューズメントジャーナルにおける設置店舗貢献度ランキング推移。同誌のランキングは現在に至るまで続いているが、ほぼ全期間において太鼓の達人のポイントがIIDXを上回っている。

 繰り返しになるが、太鼓の達人はIIDXの顧客層をさほど切り崩してはいない。つまり、全盛期のIIDXの勢いを衰えさせることなく受け止めつつ、新たな客層を取り込んだ上で完封していることになる。

まだやるかい
ヒ……

 音楽ゲームの認知度を上げ、プレイ人口を広げ続けている太鼓の達人は、やはり音ゲー界の絶対王者だったのである


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